20 次の使徒の言葉も、我々が自由意志を持たないことへと逸らしてしているように思われよう。その箇所で彼は、自分自身のために応えて言っている:「ですから、(神はご自分が)望む人を憐れみ、(ご自分が)望む者を固くします。すると、あなたは私に言うでしょう。『(神は)さらに何を責めるのか。誰が彼の意思に逆らったのか』と。いったい人よ、神に口答えするとは、あなたは何者なのですか。造形物は、(それを)造形した人に、『なぜあなたは私をこのように造形したのか』とは言わないでしょう。それとも粘土の陶工は、同じ生地から、或る物を名誉のための器に、他の物を不名誉のための器に作る権能を持たないのですか[1]」と。次のように言う人がいるだろう:「陶工が同じ生地から諸々の或る物を名誉のための器に、諸々の他のものを不名誉のための器に作るのと同じように、神が、或る物たちを救いのために、他の物たちを滅びのために作るとすれば、救われることや滅びることは我々によって起こされるのではなく、我々は自由意志も持たない」。(使徒の)それらの言葉をそのように使う人に対して、次のように言われなければならない。すなわち、「使徒について、彼が自分自身に反対する諸々の言葉を述べていると理解することができるか」と。敢えてそのように言う人がいると私は思わない。もしも使徒が自分自身に反する諸々の言葉を口にしないとすれば、そのように(使徒の言葉を)受け取る人によると、コリントで姦淫をした者や、堕落したのに、犯した放縦と不摂生について改心しなかった人たちを(使徒が)譴責しても、どうして理にかなった仕方で非難できるのか[2]。また、オネシフォロスの家のように、彼が賞賛する人たちをよく振る舞ったとして、どうして祝福することができるのか。彼は言っている:「主がオネシフォロスの家に憐れみを与えてくださるように。彼はしばしば、私を活気づけ、私の監禁を恥じず、ローマに来ると熱心に私を探し見つけました。どうか主が、かの日に主の許で憐れみを見出すことを彼にお許しになるように[3]」。実に、罪を犯した人を叱責に値するとして非難し、立派に振る舞った人を賞賛に値するとして歓迎する一方で、我々(の意志)に掛かるものは何もないとして、名誉のための器と不名誉のための器は創造主に起因していると主張することは、同じ使徒のすることではない。また、「私たちは皆、各自が、善いことであれ、醜いことであれ、身体を通して行なった諸々の事柄の報いを受けるために、キリストの法廷の前に立たなければなりません[4]」という言葉がどうして健全なのか――諸々の醜い事柄を行なった人々は、彼らがそのような行いのための不名誉の器として造られたがゆえにそうするに至ったとし、徳に従った生活をした人たちは、彼らが始めからそのために備えられ、名誉の器となったがゆえに、美しいことを行なったとすれば。さらに、我々が引用した諸々の言葉から彼らが憶測しているように、名誉ある器や不名誉な器が創造主に起因することに、別の箇所で次のように言われていることがどうして対立しないだろうか。「大きな家の中には、金の器や銀の器があるばかりでなく、木の器や粘土の器もあります。一方は名誉のために、他方は不名誉のために。ですから、もしも人が自分自身を清めるなら、その人は名誉のための器、聖化された器、主人に役立つ器、一切の善き業に備えられた器になるでしょう[5]」とある。自分自身を清めた者が名誉のための器となり、汚れた我が身を省みない人は不名誉のための器になるならば、それらの言葉に基づく限り、創造主は決して(そのことの)原因ではない。実際、主は、名誉の器と不名誉の器を、始めから予知に従って作るのではない。なぜなら主は、それに従ってあらかじめ断罪したり、あらかじめ義としたりしないからである。むしろ主は、自分自身を清めた人たちを名誉の器とし、汚れた我が身を省みない人たちを不名誉の器とする。したがって、名誉のための器と不名誉のための器の準備に先立つ諸原因から、或る者は名誉のための器になり、他の者は不名誉のための器になる。



[1] Rm.9,18-21.

[2] 1Co.5,1s.; 2Co.12,21.

[3] 2Tm.1,16-18

[4] 2Co.5,10.

[5] 2Tm.2,20-21.