21 そこで、もしも我々が、名誉の器と不名誉の器に先行する何らかの諸原因が存在することをひとたび認めるなら、魂に関する問題に至ったとき、ヤコブが愛されたことと、エサウが嫌われたことに先行する諸原因――身体の中に入る前のヤコブのためと、レベッカの体内に生れる前のエサウのための諸原因――が生じたと考えることに何の不条理があろうか[1]。同時に、次のことが明瞭に示される。すなわち、基体となる本性に関する限りで、粘土――この生地から名誉のための器と不名誉のための器が作られる――が陶工の許で基体となるように[2]、一切の魂の唯一の本性が神の許で基体となっており、言ってみれば、諸々の理性的な個別存在者の唯一の生地が存在しているのであって[3]、先行する何らかの諸原因がある人たちを名誉のために、他の人たちを不名誉のために存在せしめたのである。「いったい人よ、神に口答えするとは、あなたは何者なのですか[4]」と述べる使徒の表現が(人を)譴責しても、おそらくそれは、次のことを教えている。すなわち、神に対する素直さを持ち、忠実で、よく生活した人は、「神に口答えするとは、あなたは何者なのですか」という言葉を聞かないだろう。モーセがそのような人だった。「モーセは語った。神は彼に音声で応えた[5]」とある。神がモーセに対して応えたように、聖なる人も神に応える。そのような素直さを獲得しなかった人は、明らかに(その素直さを)失ってしまったか、それらの事柄に関して、学識愛に従ってではなく、論争愛に従って尋ね、「(神は)さらに何を責めるのか。誰が彼の意思に逆らったのか[6]」と言う。彼は、「いったい人よ、神に口答えするとは、あなたは何者なのですか」と言う譴責に値するだろう。



[1] 魂の先在説が暗示されている。

[2] 訳文中に見られる「基体」という言葉は、「変化の底にあるもの」を意味する哲学用語であるが、「下にあるもの」というのが文字通りの意味である。ここでは、「自由に処理しうる材料」を意味する。原語は、u`po,keimaiの変化形である。

[3] 「一切の魂の唯一の本性」(mi,a fu,sij pa,shj yuch/j)や「諸々の理性的な個別存在者の唯一の本性」(e[n fu,rama tw/n logikw/n u`posta,sewn]は、次節の冒頭の「諸々の本性を導入する人たち」(oi` ta.j fu,seij eivsago,ntej)に対応している。後者は、いわゆるグノーシス派の見解であるが、オリゲネスも、原始正統派の内に留まった「修正グノーシス主義者」である(盗用厳禁)

[4] Rm.9,20.

[5] Ex.19,19.

[6] Rm.9,19.