22 諸々の本性を導入し、その言葉[1]を利用する人たちに、次のことが言われねばならない。もしも彼らが次のことを保持するなら、すなわち、滅びる者たちと救われる者たちが唯一の生地から成ったこと、救われる者たちの創造主は滅びる者たちの創造主でもあることを保持するなら、また、(彼らに従うなら)霊的な者たちばかりでなく土的な者たちを造った方が善良な方であるなら、先行する何らかの諸々の善行によって現在成った名誉の器が、類似の諸々の善行しかも名誉の器に適した諸々の善行を成し遂げないなら、別の代に不名誉の器に成ることは確かに可能である。同様に、この生活に先行する諸々の事柄によってここに成った不名誉の器が、新しい創造において正され[2]、「名誉の器、聖化された器、主人に役立つ器、一切の善き業に備えられた器[3]」に成り得る。おそらく、現在のイスラエル人たちも、その高貴な生まれに相応しく生活しないなら、その種族から脱落し、いわば名誉の器から不名誉の器に変わるだろう。また、現在のエジプト人たちとエドム人たちの多くが[4]、イスラエル(の町)に向かい、大いに実を結ぶなら、主の教会に入るだろう。彼らはもはや、エジプト人やエドム人であると見なされず、イスラエル人になるだろう。したがって、諸々の意向によって、或る者たちは諸々のより劣った事柄から諸々のより優れた事柄へと進歩し、他の者たちは諸々のより優れた事柄から諸々のより劣った事柄へと退歩する。また、他の者たちは諸々の美しい事柄の内に身を保ち、あるいは諸々の美しい事柄から諸々のより優れた事柄へと上り、他の者たちは諸々の悪い事柄そのものの内に留まり、あるいは諸々の悪い事柄から、害悪をばらまきながら、さらに劣った者に成る。



[1] Rm.9,18-21 et 2Tm.2,20-21.

[2] Ga.6,15.

[3] 2Tm.2,21.

[4] Cf.Dt.23,7.