23 したがって、一方で使徒は、名誉のための器に成るか、不名誉のための器に成るかに関して神の意志[1]を主張せず、むしろすべてを我々に帰して、次のように言う:「ですから、もしも人が自分自身を清めるなら、その人は名誉のための器、聖化された器、主人に役立つ器、一切の善き業に備えられた器になるでしょう[2]」と。他方で彼は、我々の意志[3]を主張せず、むしろすべてを神に帰しているように見える。彼は次のように言う:「粘土の陶工は、同じ生地から、或る物を名誉のための器に、他の物を不名誉のための器に作る権能を持つ[4]」と。しかし、彼によって述べられたそれらの事柄が矛盾であるわけがない。それゆえ、両者を結び合わせ、両者から一つの完全な主張を生み出さなければならない。我々の意志は、神の知識なしにはない[5]。神の知識は、我々が進歩することを強制しない――我々も、善に対して何らかの寄与をしなければ。さりとて、神の知識もなく、我々の意志の相応しい行使もなければ、我々の意志は、人を名誉のために、あるいは不名誉のために成らしめない。また、神の意志だけでは、人を名誉のために、あるいは不名誉のために備えない――(神の意志が)諸々のより優れた事柄や諸々のより劣った事柄に向かう我々の決断を(そのような)違いのいわば材料として持つのでなければ。自由意志[6]に関しては、以上で、我々によって充分に述べられたとしよう[7]



[1] to. evfVh`mi/n:「我々への依存」が直訳である。

[2] 2Tm.2,21.

[3] to. evpi. tw/| qew/|:「神への依存」が直訳である。以下、同様にそれを「我々の意志」と訳す。

[4] Rm.9,21.

[5] 省略

[6] 省略

[7] 本巻は、『諸原理について』第31の抜粋である。しかしそれには、ルフィヌスやヒエロニムスのラテン語訳と比較すると、省略や修正が見られる。