しかしもしも人が、外来の事柄それ自体は、たとえそれが将来しても、対応しがたいものになっていると言うなら、その人は、自分自身の諸々の情念と諸々の動きに関して、その都度の諸々の確信に基づく是認や同意、何らかの事柄への主導能力の定位が生じないのか否かを知るべきである。たとえば、自制心を持ち諸々の交わりから身を遠ざける決意した人の前に、女性が現れ、目的から外れるような何らかのことをするように誘っても、その女性は、目的を等閑にすることの十全な原因にはならない。なぜなら、快楽のこそばゆさや心地よさを完全に是認して、それに対処しようともせず、決意を新たにしようともしないとき、人は淫乱を行なうからである。これに対し、より多くの学識を摂取し訓練を積んだ人は、それらの事柄が降り掛かると、逆の振る舞いをする。諸々のこそばゆさや諸々の興奮が降り掛かる。ところが理性は、訓育によってとても強められ堅固になり、諸々の学説によって美[1]に向かって強化され、あるいは強化されることに近づいていれば、諸々の興奮を退け、快楽を弱める。



[1] 「美」と訳した原語(to. kalo,n)は、もちろん「倫理的な美」すなわち「善」を含意するが、敢えて「美」と直訳する。原語の第一義が「美」だからである。