それらの事柄が我々に対して生じたとき、外来の諸々の事柄を非難し、まるで自分たちが、諸々の木材や石であるかのように成りすまし――それらの木材や石は、(諸々の木材や石を)動かす外来の諸々の事柄によって引きずられる――自分たち自身をその非難から放免することは、真実はないし、良識にかなうことでもない。そのようなことを主張する者の意図は次のようなもの、すなわち、自由意志を変造することである。実際、我々が、自由意志とは何であるかを、その人に尋ねるなら、彼は、外来の諸々の事柄が何一つ立ち現れないなら、私が何らかの目標を立てても、(その目標と)反対の方向に招くものはないと言うかもしれない[1]。また、剥き出しの構成を非難することも、明証的な事実に反する。なぜなら教育に関わる理性が、不節操極まりない人たちや野蛮極まりない人たちを受け入れ――もしも彼らがその勧告に聞き従うなら――、彼らを変革するからである。その結果、その勧告とより善きものへの変革が絶大であれば、しばしば、放縦極まりない人たちが、生まれてこの方そのようには見えなかった人たちよりもより善くなり、野蛮極まりない人たちが甚だしく大人しくなり、それまで一度たりとも野蛮になったことのない人たちが、大人しくなった人に比べて野蛮に見えることになる。さらに我々は、きわめて堅固で極めて立派な人たちが、変節によって、立派さと堅固さから、より悪い諸々の暮らしへと押し遣られるのを見る。その結果、彼らは放縦に成る。しばしば彼らは、熟年になってから、放蕩にはしり、放縦に陥る――青年期には自然本性的に付き物の不安定さが過ぎ去った後でさえも。したがって理性は、次のことを証明する。すなわち、外来の諸々の事柄は、我々に掛かるものではない。しかし、外来のあれこれの諸々の事柄にどのように対処すべきかということに関して理性を審判者とし検討者としつつ、このような仕方で、あるいは、反対の仕方でそれらの事柄を使用することは、我々の業であると。



[1] すなわち、決断(自由意志)は外来の諸々の事柄に依存するということである。