美しく生きることが我々の業であり、神が我々にそのように求めている――そのことは、神によって、あるいは他の何らかの事柄によって、あるいは或る人たちが考えるように運命によって生じるのではなく、我々の業である――、そのことを預言者ミカは、次のように言って証している。「人間よ、もしも彼があなたに、何が美しいことであり、主があなたから何を求めているかを告げたとすれば――裁きを行なうこと、憐れみを大事にし、あなたの神なる主とともに歩むことに心がけること以外に[1]」。モーセは次のように言っている。「私は、あなたの顔の前に、命の道と死の道を置いた。あなたは善を選び、その内に歩みなさい[2]」。イザヤは言っている。「もしもあなた方が望み、私に傾聴するなら、あなた方は地の諸々の善きものを食べる。しかし、もしもあなたがたが望まず、私に傾聴さえしないなら、剣があなた方を食べつくす。主の口がそれらのことを語った[3]」。『詩篇』の中にも、「もしも私の民が私に聞き従ったなら、もしもイスラエルが私の諸々の道を歩んだなら、私は、彼らの敵たちを無におとしめ、彼らを圧迫するものたちの上に私の手を置いただろう[4]」とあります。それはまるで、聞き従い、神の諸々の道を歩むことが民に掛かっているかのようである。救い主も、次のように言っている。「私は、あなた方に、邪悪な者に立ち向かってはならないと言う[5]」、「自分の兄弟に立腹する人は、裁きを受けるだろう[6]」、「情欲を満たすために婦人を見る者は、すでに自分の心の中で貫通したのだ[7]」と。(救い主は)その他の掟を与える場合でも、命じられた諸々の事柄を守ることは我々に掛かっており、我々がそれらの事柄を破るなら、裁きを受けるのが当然であるかのように語っている。そのようなわけで、救い主は次のように言っている。「私のこれらの言葉を聞き、それらの言葉を聞くものは皆、岩の上に自分の家を建てた思慮深い人にたとえられるだろう[8]」云々。「それに対し、聞いても行なわない者は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている[9]」云々と。また(救い主は)、「右側にいる人たちに」言っている。「あなた方は私のところに来なさい。私の父に祝福された者たち」云々。「実際、私は飢えていたとき、あなた方は私に食べ物を与えてくれた。喉が渇いていたとき、あなた方は私に飲み物を与えてくれた[10]」と。(彼は)、彼らが賞賛されることの原因であることがきわめて明瞭であるかのように、それらの約束を与えている。反対に、他の者たちに対しては、彼らがみずからのせいで非難されるかのように、言っている。「呪われた者たち、あなた方は、永遠の火の中に歩んで行きなさい[11]」と。

 さらに我々は、パウロが我々に語りかけているか見てみよう。彼は、我々が自由意志を持っており、我々自身が滅びや救いの原因であるかのように語りかけている。彼は言う。「あなたは、彼の善良さと忍耐と寛大さとの豊かさを蔑ろにするのですか――神の善良さは、あなたを悔い改めに導くことも知らないで。あなたは、あなたの頑なさと悔い改めない心に応じて、怒りの日のために神の怒りと開示と正しい裁きとをあなた自身の上に蓄えている。神は、各人の諸々の業に応じて、それぞれに報いるでしょう。粘り強い善き業によって栄光と名誉と不滅を求める人たちには永遠の命を(与え)、しかし、党派心に駆られて真理に従わず、不正に従っている人たちには、怒りと憤りが(与えられるでしょう)。悪をしでかす人間の一切の魂に――まずユダヤ人の魂に、次にギリシア人の魂に――苦悩と苦境が。栄光と名誉と平和が善を行なうすべての人に――まずユダヤ人に、次にギリシア人に[12]」。諸々の聖文書の中には、自由意志を極めて明瞭に証明する箇所が無数に存在する。



[1] Mi.6,8.

[2] Dt.30,15,19.

[3] Is.1,19-20.

[4] Ps.80,14-15.

[5] Mt.5,39.

[6] Mt.5,22.

[7] Mt.5,28.

[8] Mt.7,24.

[9] Mt.5,26.

[10] Mt.25,34-35.

[11] Mt.25,41.

[12] Rm.2,2-10.