しかし反対に、すなわち、諸々の命令を守り救われることと、それらを破り滅びることとが我々に掛かっていないとして、旧約と新約から幾つかの語句を抜き出している。そこで我々は、それらから一部を引用して、それらの語句の諸解決を考えてみよう。それは、我々が引用した語句から、自由意志を否定しているように見えるすべての語句、人がみずから同じようにして選び出し、それらの語句の諸解決を考察するためである。ファラオに関する諸々の事柄は、実に多くの人たちを動揺させてきた。彼に関わって、神はしばしば次のように言っている:「私は、ファラオの心を固くする[1]」。もしも彼が、神によって固くされ、固くされることによって罪を犯すとすれば、彼は、みずからにおいて罪の原因ではない。しかし、もしもそうであれば、ファラオは自由意志を持たない。或る人は言うだろう:同じ理屈で、滅びる人たちは自由意志を持たず、自分たち自身のせいで滅びるわけでもないと。『エゼキエル書』では、こう言われている:「私は、彼らから諸々の石の心を取り除き、諸々の肉の石を置き入れる。それは彼らが、私の諸々の定めの内に歩み、私の諸々の義を守るためである[2]」。この言葉も、人を動揺させるだろう――神は、諸々の命令の内に歩ませ、諸々の義を守らせている。妨げになるものを、すなわち石の心を密かに除去し、より優れたもの、すなわち肉の心を置き入れることによって。

 また我々は、福音書からの語句を見てみよう。なぜ諸々のたとえ話で多くの人たちに語るのかと尋ねた人たちに[3]、救い主は何と答えているか。彼は言う:「それは、彼らが見ても見ず、聞くには聞くが理解せず、立ち帰って赦されないようにするためである[4]」。さらに、パウロ(書簡)には次の語句がある:「それは、望む人や奔走する人に属すのではなく、憐れみを持つ神に由来します[5]」。「望むことと働くことは、髪に由来します[6]」。他の箇所では、「したがって(神は)(ご自分の)望む人を憐れみ、(ご自分の)望む人を固くします。すると、あなたは私に言うでしょう。『では、なぜ彼は責めるのですか。誰が、彼の意図に逆らったのですか』と[7]」。「この懇願は呼んだ方に由来するのであって、我々に由来するものではありません[8]」。「人よ、あなたは何者なのですか。神に言い逆らうとは。造られた物が作った方に言うのですか:『なぜあなたは、私をこのように作ったのか』と。それとも粘土の陶工は、同じ生地から、名誉のための器と不明のための器を作る権能を持たないのですか[9]」とある。それらの語句は、それら自体で、多くの人たちを当惑させるのに十分である――人間には自由意志はなく、神は、ご自分の望む人たちを救い、また、滅ぼすと。



[1] Ex.4,21.

[2] Ez.11,19-20.

[3] Mt.13,10 et Mc.4,11.

[4] Mc.4,12.

[5] Rm.9,16.

[6] Ph.2,13.

[7] Rm.9,19.

[8] Ga.5,8.

[9] Rm.9,20-21.