しかし、(神がファラオの心を)「固くした」という言葉を理解したと思い込んでいる人たちに尋ねなければならない。そもそも神は、心を固くすることによって何を働き、どのような目的でそれを行うと彼らは言うかと。彼らは、神の観念を注視してみるべきである。健全な教えによれば、神は正しく善い方であるが、もしも彼らがそれを望まなければ、差し当たり彼らに譲歩して神は正しい方であるとしよう。また彼らは、次のことを証明すべきである:固くされて滅びる者の心を神が固くするのが正しいとすれば、どうして神は正しく善い方であると思われるのか、あるいはたんに正しい方であると思われるのか。固くされ、神に反抗する者たちが神によって罰せられるとすれば、どうして正しい神が滅びと反抗の原因になるのか。なぜ神は、彼を非難して、次のように言うのか:「しかしあなたは、私の民を送り出そうと望まなかった。見よ、私は、エジプトにおけるすべての初子たちとあなたの初子」、神がモーセを通してファラオに語ったと書き記されているその他すべての初子たちを「打つ[1]」と。(聖なる)諸文書が真実であり、神が正しい方であると信じている者は、もしもその人が思慮ある人であるなら、どうして神がそれらの文言の内にあっても正しい方であると明晰に思われるのか取り組む必要がある。もしも誰かが、「無帽の頭[2]」で起訴状を書き、創造主は邪悪な方であるという立場とるなら、彼に対しては別の諸議論が必要である。

 しかし彼らは、神に関して正しい方であるという姿勢をとり、我々は善い方であると同時に正しい方であるという姿勢をとっているのであるから、正しく善い方がどのような意味でファラオの心を固くするのか、考察することにしよう。



[1] Cf.Ex.9,17; 4,23.

[2] Platon, Phaedr.243 B.「恥知らずにも」という意味。