そこであなたは、使徒がヘブライ人たちへの手紙の中で用いた或る例を通して、我々が次のことを証明できるかどうか考えてください。どのようにして神は、単一の働きによって、或る人を憐れみ、他の人を固くするのか[1]――固くしようと目論んでではなく、善意によって。固くされることは、この善意の結果として、彼ら自身の許にある悪きものの悪の基体のゆえに起こる[2]。そのため(神は)、固くされる者を固くすると(一般に)言われる。(使徒は)言う:「土地は、その上に降る雨を吸収し、耕作の受益者たちに役立つ草を産み出すなら、神による祝福に与ります。しかし諸々の茨や諸々のアザミをもたらすなら、それは異物であり、呪いに近いものです。その結末は焼却[3]」。それゆえ、雨に関わる働きは単一である。しかし雨に関わる働きは単一の働きであるが、耕された土地は実をもたらし、等閑にされ固くなった土地は茨をもたらす。雨を降らせた方に、「私が、諸々の実をつくり、その土地の内の諸々の茨をつくった」と言わせるのは侮辱的であると思われよう。しかし、たとえ侮辱的であるとしても、それは真実である。実際、雨が降らなかったなら、諸々の実も諸々の茨も生えなかっただろう。雨が時宜を得て適度に降り注ぐなら、両方が生える。何度も降ってきた雨を吸収した土地が諸々の茨とアザミをもたらすなら、その土地は異物であり、呪いに近いものである。したがって雨の恵みは、より悪しき土地にも訪れた。しかしながら、その基体は等閑にされ耕作されなかったために、諸々の茨とアザミを芽生えさせた。同様に、神によって起こされる諸々の驚異的な事柄も、雨の如きものである。諸々の選択的な意志が異なるのは、耕作された土地と等閑にされた土地が異なる如くである――土地としては単一の本性の下にありながら。



[1] Cf.Rm.9,18.

[2] 「悪の基体」(to. th/j kaki,aj u`pokei,menon)は、人間の有限性そのものである。

[3] He.6,7-8.