10 次に、もしもできる人がいるなら、その人は、歴史の外観の内に――その歴史は、或る事柄を実に歴史的に真実なものとして有しており、或る事柄を実に言語を絶したものとして表している――、始めからの言語を保持している人たちを見るべきである。彼らは、「東方」から動かず、「東方」で東方の言語の内に留まっている人たちである。また、彼らだけが主の領地となり、「ヤコブ」と呼ばれる彼の民となり、「彼の嗣業の地所イスラエル[1]」になったことを理解すべきである。彼らだけが、他の君主たちのように自分の配下の者たちを懲らしめるために引き受けたのではない君主によって管理された。しかし、可能な人は、いわば人間たちの内に次のことに注視すべきである。すなわち、際立った取り分として主に割り当てられた人たちの社会の内に、諸々の罪が生じた。それらは最初、許容範囲内にあり、彼らが完全に見捨てられるに値するものではなかった。それらは後に数を増したが、まだ許容範囲内にあったと。そして、それは長期にわたって続き、いつも治療が施され、彼らは間断的に改心したと理解したなら、その人は次のことを見るべきである。すなわち、彼らは、犯された諸々の罪に比例して、他の諸々の場所を獲得した者たちに渡された。最初、彼らがいわば教育されるために懲らしめられ償いを果たす程度は低く、やがて各自の場所に帰っていった。しかし後に彼らは、もっと厳しい支配者たち――たとえば(聖なる)諸文書が名を挙げているように――アッシリアの王たち、次にバビロニアの王たちに渡されたことに注視すべきである。数々の治療が施されたにもかかわらず、彼らは犯された諸々の罪を勝るとも劣らず増やし、それゆえに、他の諸民族を支配し彼らを収奪する者たちによって、他の諸々の領地にばら撒かれたことを見るべきである。しかしながら、彼らを支配する方は、彼らが他の諸民族の内に君臨する者たちによって収奪されるように意図的に計らったとすべきである。それは彼が、奪い返すことができるならその者たちを他の諸民族から奪い返す権能を持つ者として、みずから報いるかのように、理にかなった仕方でそれを為し、彼らのために諸々の律法を立て、生きられるべき生活を提示するためである。それは詰まるところ、罪を犯さなかった者たちを以前の民族の中から導こうとした目的地へと、彼らを導くためであった[2]

 それゆえ、それらの斯様に偉大な諸々の事柄を注視することができる人たちは、以前に罪を犯さなかった人たちを獲得した方は他の者たちよりもはるかに強力であるということを学ぶべきである。なぜなら、あらゆる者たちの取り分の中から選りすぐりの人たちを得た方は、彼らを懲らしめるために受け取った者たちから(彼らを)引き離すことができ、諸々の律法と――以前に犯された諸々の罪の忘却[3]のために彼らに与えられる――生活へと導くことができるからである。しかし、先に我々が述べたように、それらの事柄は密かに我々によって語られるべきである。我々が明らかにしたそれらの事柄を聞き違えて、次のように言う人がいたからである。すなわち大地の諸々の部分は始めから、それぞれ他の監督者たちに割り当てられ、諸々の行政区ごとに分割され、そのようにして管理されていると。ケルソスも、上に引用された諸々の発言を彼らから取って述べた。



[1] Cf.Dt.32,9.

[2] ここまでは、『ケルソスへの反論』第5巻第31節全体の抜粋である。続いて、同書第5巻第32節の前半が抜粋される。

[3] avmnhti,a tw/n prohmarthme,nwn:これは、罪の恩赦を意味している。