11 しかし、犯した罪のゆえに「東方」から移動する者たちは、「不純な精神」や「不名誉の諸情念」の中へ――しかも、「不浄へと向かう彼らの心の諸々の欲望の内に」渡されたが[1]、それは、彼らが罪に飽かされ、その罪を憎むためであった[2]。それゆえ我々は、次のように主張するケスソスの甘言に従わない。彼は言う:「大地の諸々の地域に配置された監視者たちのゆえに、それらの諸地域における諸々の事柄は正しく行われる」と。さらに我々は、それらの監視者たちの好むやり方で彼らに由来する諸々の事柄を行いたくはない[3]。なぜなら我々は、諸々の場所ごとに始めから制定された諸々の事柄を、より優れていっそう神的な諸々の律法によって廃止することが敬虔であると見ているからである。それらの律法は、最高の権能を有するイエス――彼は、「我々を現在の邪悪な代[4]」と「この代の滅びゆく支配者たち[5]」とから解放する方である――によって立てられた。それに対し、すべての支配者たちよりも清浄でいっそう権能ある方として出現し、(それを)証明された方にみずからを託さないのは不敬虔である。彼に向けて神は次のように言っていた――預言者たちが多くの世代に先立って預言していたように:「あんたは、私に求めなさい。そうすれば、私はあなたに、諸国の民をあなたの嗣業として与え、あなたの所有として地の隅々を与えよう[6]」と。そして彼は、我々――諸国の民の出身でありながら、彼を信じ、すべてのものに臨む神である彼の父を信じた我々――の「希望[7]」となった[8]



[1] Cf.Rm.1,24,26.

[2] この発言は、オリゲネスにおける神の測りがたい慈しみの観念が前提になっている(盗用厳禁)Cf.DePrinc.II,8,3; DeOrat.XXIX,13; VI,44.

[3] もちろん、「彼らに由来する諸々の事柄」(ta. parVekei,nwn)は直訳である。その意味するところは、「彼らに指示された(すなわち彼らの好む)諸々の事柄」である。

[4] Ga.1,4.

[5] 1Co.2,6.

[6] Ps.2,8.

[7] Cf.Gn.49,18.

[8] 以上は、『ケルソスへの反論』第5巻第32節の後半の抜粋である。その前半は、前節後半で抜粋されている。