また彼は、言う:「諸々の法律を守る必要がある。なぜなら、他の人々には他の仕方で(慣習法を)制定することが思い浮かび、しかも公共のために裁可された諸々の事柄を遵守しなければならないからである。そればかりか、おそらく地上の諸部分は、初めから、それぞれ別の監督者たちに割り当てられ、それぞれの支配下に分割され、そのようにして管理されているからである」と。次にケルソスは、あたかもユダヤ人たちに反対して言った諸々のことを忘れたかのように、いま、諸々の伝統的な事柄を守るすべての人たちに関する一般的な賞賛の中に、彼らを含め、「それゆえ、それぞれの監督者たちの許にある諸々の事柄は、監督者たちに好まれる仕方で行なわれれば、正しく行なわれることになろう」と述べている。あなたは、彼が簡明直裁にみずからの意志で次のことを望んでいるのではないかお考えください:すなわち、諸々の固有の法律の内に生活するユダヤ人は、それらの法律から離れない――なぜなら、離れるなら敬虔に振る舞ったことにならないからと。実際、彼は、「それぞれの場所で初めから制定された諸々の事柄を破るのは、敬虔なことではない」と言っている。

 それらに対して、私は、彼あるいは彼と同じ考えの人たちに聞きたい:初めから地上の諸部分をそれぞれ別の監督者たちに分け与え、当然のことながらユダヤ人たちの国土とユダヤ人たちを、その国土を獲得した監督者ないしは監督者たちに分け与えた者は、いったい誰なのかと。ケスソスなら名を挙げるかもしれないが、ゼウスが、或る者あるいは或る者立ちにユダヤ人たちの民族と彼らの国土を分け与え、ユダヤの国土を獲得した者がユダヤ人の法律としてそれらの法律を定めるように望んだのか。それとも、彼の望みに反して、そのようなことが起こったのか。しかし、彼がどのように答えようと、(彼の)議論が追い詰められるのを、あなたは知るべきです。しかし、誰か一人の者によって地上の諸部分がそれぞれの監督者たちに分け与えられたのでないなら、無作為に、しかも統括者なしに、それぞれ(の監督者)がでたらめに大地を分割したことになる。それは馬鹿げており、万物に臨む神の摂理を端的に否定する[1]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第5巻第26節全体の抜粋である。