しかし、諸々の監督に従って分割された大地の諸部分は、どのようにして、それらの諸部分を監視する者たちによって管理されるのか、(そのことを)望む者は説明すべきである。また、それぞれの諸部分で成し遂げられる諸々の事柄が、監督者たちに好まれる仕方で為された場合、どうして正しい仕方で実践されるのか我々に述べるべきである。そして、たとえば父親たちの殺害に関するスキタイ人たちの諸々の法律や、母親たちが自分の息子たちと結婚することや父親たちによって各自の娘たちが娶られることを禁止するペルシア人たちの諸々の法律が正しいものであるかどうかを我々に述べるべきである。なぜ私は――さまざまな民族の内にある諸々の法律に関わった人たちから(例を)集めて――それぞれの民族の許にある諸々の法律が、どうして、監督者たちに好まれる限りで正しく実践されるのかについて、さらに疑問を呈する必要があるだろうか。ケルソスは、次のことを我々に言うべきである:母親たちや娘たちを娶ることや、縊死によって人生を終わらせることは至福であること、火にみずからを委ね、人生からの火を通した離別に自分自身を委ねる人たちは完全に浄化されることに関する伝統的な諸々の法律を破ることが、どうして敬虔なことではないのか。また、たとえば、異国人たちを生け贄としてアルテミスに捧げられることに関するタウロスの人たちの許における諸々の法律や、子どもたちをクロノスのために生け贄にすることに関するリビア人たちの或る人たちの許における諸々の法律を破ることが、どうして敬虔なことではないのか。しかし、ケルソスに従えば、万物の創造者とは別の何らかの神を拝んではならないことに関する伝統的な諸々の法律を破ることはユダヤ人たちにとって敬虔でないことになる。また彼によれば、敬虔なものは、本性によってではなく、何らかの取り決めと慣例によって神的なものになろう。実際、或る人たちの許では、ワニを崇拝し、他の人たちの許で崇拝されている動物たちの何かを食べることは敬虔なことである。他の人たちにとっては、仔牛を崇拝することが敬虔なことであり、別の人たちの許では山羊を神と見なすことが敬虔なことである。こうして同じ一人の人が、或る諸々の法律によれば諸々の敬虔な事柄を行い、他の諸々の法律によれば諸々の不敬虔な事柄を行なっていることになろう。それは、何よりも馬鹿げている[1]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第5巻第27節全体の抜粋である。