しかし、それに対し、人々は言うかもしれない:諸々の伝統的な事柄を守っている人は敬虔であり、その人が他の人たちの諸々の伝統的な事柄を守らなかったからといって決して不敬虔にはならない。さらに、然々の人たちの許で不敬虔な人物であると思われている人も、諸々の伝統的な事柄に従って彼自身に固有の諸々の事柄を敬い、他方で正反対の諸法律を持つ人たちの許にある諸々の事柄を攻撃し、食い尽くしても、不敬虔ではないと。しかしあなたは、それらの点で彼が、正義と敬虔と敬神とに関してどれほど大きな混乱を露わにしているかご覧ください――それらが判然と定まらず、何らかの固有な本性も持たず、それらに従って行為する人たちを敬虔であると特徴づけないとすれば。実際、敬神と敬虔と正義とが諸々の相対的な事柄に属しており[1]、同じ事柄が異なる諸状態と諸法律の許で敬虔にも不敬虔にもなるとすれば、必然的に節制も優希も思慮も知識もその他の諸徳も、諸々の相対的な事柄に属すことになるのではないか、あなたはお考えください[2]



[1] 省略

[2] 本節は、『ケルソスへの反論』第5巻第28節の前半の抜粋である。後半は、本章第6節で抜粋されるが、念のためにそれを訳出すると、次のようになる:

(上に)引用されたケルソスの諸々の発言に対しては、一層の単純さと平明さを旨としつつ我々によって述べられたことで充分である。しかし、一層の探究心に富んだ人たちの中の幾人かは、本書を読むと、当然、我々は思っている。そこで我々は、より深遠な諸々の事柄の若干を、危険を冒して提示することにする――それらの若干の事柄は、地上の諸々の地所が、初めから、それぞれ別の監督者たちに割り当てられたことに関するある神秘的で言語を絶した省察を含んでいる。さらに我々は、(我々の)教えが、上で述べられた数々の不条理を免れていることを力の限りを尽くして証明しよう。