以上の事柄から、議論は次の方向に進むようにケルソスには思われている。すなわち、すべての人々は諸々の伝統的な事柄に従って生活すべきであり、それによって彼らは非難されることはなかろう。それに対しキリスト者たちは、諸々の伝統的な事柄を捨てて、ユダヤ人たちのように一民族を成さなさず、怪しからぬことに、イエスの教えに身を委ねていると。そこで彼は、我々に言うべきである:すなわち、哲学を営み、迷信を信じないように教える人たちは――たとえば、彼らの先祖たちの間では禁止されていた諸々の食物を食べるように教える人たちは――諸々の伝統的な事柄を捨てるのが適切なのか、それとも彼らがそのようにするのは不適切なのかと。もしも哲学と、諸々の迷信に反対する数々の学識とによって、彼らが、諸々の伝統的な事柄を守らず、先祖たちから彼らに禁止されていた諸々の食物を食べるのであれば、どうしてキリスト者たちも――み言葉が[1]、諸々の彫刻と諸々の偶像や神の諸々の被造物に関与せず、むしろ(それらを)乗り越えて、魂を創造主に差し出すように説いているのだから――、哲学を営むものたちと似たことを行っているにもかかわらず、非の打ち所なくそれを行なっていることにならないのか。もしもケスソスがみずからに立てた仮説を守るために――あるいは彼の諸説に賛同する人たちが次のように言うなら――、すなわち、人が哲学を営むなら、諸々の伝統的な事柄を守るべきであると言うなら、あなたは、哲学者たちが滑稽極まりない者になることにお気づきください――たとえば、エジプト人たちの内にいて、(彼らの)諸々の伝統的な事柄を守るために玉ねぎを食べるのを避けたり、先祖たちから彼らに伝えられた諸々の事柄に違反しないように頭や肩などの身体の或る諸部分を食べるのを避けたりするなら[2]。同様に、み言葉によって万物の神を崇拝することへと導かれた人が、実に諸々の伝統的な事柄のゆえに、諸々の彫刻と諸々の人間的な偶像がある低所に留まり、みずからの決断で創造主の方に昇ろうとしないなら、彼は、哲学に属する諸々の事柄を学んだにもかかわらず、恐れるに値しない諸々の事柄を恐れ、あれこれのものを食べることが敬虔であると見なしている人に似ていよう[3]



[1] 「み言葉」の原語(ロゴス)は、もちろん、「理性」とも訳せる。本文では、両者の意味を含む。

[2] 『ケルソスへの反論』の当該箇所を調べると、この直後の箇所で、次の二文が、『フィロカリア』で省略されている。訳すと:

私は、身体の諸々の膨れにまつわる数々の愚言に戦慄するエジプト人たちに関して、まだ次のことを言っていない。すなわち、もしも彼らの内の誰かが哲学を営み、諸々の伝統的な事柄を守るなら、彼は、諸々の非哲学的な事柄を行なう滑稽な哲学者になるだろうと。

 

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第5巻第35節の抜粋である。途中で省略があるが、それは、前注に明示した。