それらに関する説明は、偉大であり神秘的である。その説明には、「王の神秘は隠すのが美しい[1]」という言葉が適合する。それは、身体に拘束された諸々の魂――それは輪廻によってではない――に関する説明が、気紛れな諸々の耳に投げ込まれないようにするためであり、諸々の聖なる事柄が犬どもに与えられないようにし、諸々の真珠が豚どもに投げ与えられないようにするためである[2]。確かに、そのようなことは、神の知恵の言説を超えた諸々の託宣の裏切りを含んでおり、冒瀆である。その知恵について、次のように美しく書かれている:「知恵は、悪賢い魂に入ることはなく、罪に巻き込まれた身体の中に宿ることもない[3]」と。しかし、いわば歴史の様式の内に密かに語られた諸々の事柄を、歴史の様式に即して提示するだけで十分である――能力のある者たちが、その箇所に関する諸々の事柄をみずから調査するには[4]



[1] Tb.12,7.

[2] Cf.Mt.7,6.

[3] Sg.1,4.

[4] 以上は、前節に続き、『ケルソスへの反論』第5巻第29節の最後の段落からの抜粋である。