そこで、地上にいるすべての人たちが何らかの単一の神的な言語を使っていたと考えよう。そして、彼らは、互いに調和を保っている限りで神的な言語の内に身を持しており、光に属する諸々の事柄と、「永遠の光からの照り返し[1]」に属する諸々の事柄を思慮する限りで、「東方」から動かずにいるとしよう。また彼らは、「東方」とは無縁の諸々の事柄を思慮し、「東方」からみずからを動かすと、「シンアルの平原」――これは、彼らが諸々の糧を失ったことの象徴として「歯軋り」と解釈される――を見出し、そこに居住するとしよう[2]。次に、質料に属する諸々のものを集め、本性的に接着されない諸々のものを天に接着しようとし、諸々の質量的なものによって非質料的なものに謀をしようとして、次のように言ったとしよう:「さあ、諸々の煉瓦を作り、それらを火で焼こう[3]」。こうして彼らは、諸々の粘土と質料的なものを強め固め、煉瓦を石にし、粘土をアスファルトにし、それらによって「町と塔」を建設しようと望み――その塔の先端は、彼らの思惑による限りで、神の覚知に逆らう諸々の高慢な思い上がりに従って、「天にまで届く」ことになっていた[4]――、それぞれ、「東方」からの大なり小なりの移動に比例して、諸々の粘土を諸々の石に変える度合いや粘土をアスファルトに変える度合い、それらによる建設に比例してみ使いたち――大なり小なり厳しく、然々の性質を持ったみ使いたち――に委ねられ、彼らが敢えて行った諸々の事柄に関する数々の罰を受けるとしよう。そして自分たち自身に固有な言語を植え込まれた人たちの各々は、み使いたちによって、彼ら自身の功績に応じて大地の諸々の地区に導かれるとしよう。たとえば、ある者たちは焼けるような地所に導かれ、他の者たちは冷え切ったがゆえにそこに住む者たちを懲らしめる地所に導かれる[5]。また、ある者たちは耕作の困難を極める地所に導かれ、他の者たちはそれほどでもない地所に導かれる。ある者たちは野獣たちに満ちた地所に導かれ、ある者たちは野獣がそれほどいない地所に導かれる[6]



[1] Sg.7,26.

[2] Cf.Gn.11,1-2.

[3] Gn.11,3.

[4] Cf.Gn.11,3-4.

[5] 「冷え切った」と訳したギリシア語(kateyu/cqai)は、オリゲネスの『諸原理について』によれば、神への愛にさめて天井から落下して地上に生を受けた「魂」(yuch,)の語源的解釈に相当する。もちろんここには、霊魂先在の仮説が暗示されている(盗用厳禁)

[6] 以上は、『ケルソスへの反論』第5巻第30節全体の抜粋である。