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運命について。神は各人によって行われる諸々の事柄を予知していながら、どのようにして我々の自由意志は保たれるのか。どのような仕方で諸々の天体は、人間たちにおける諸々の事柄の起因ではなく、(それらのを指し示す)印にすぎないのか。人間たちは、それらの事柄に関する覚知を正確に持つことはできないが、それらの諸々の印は神的な諸力にとって露わになっていることについて。それらの原因は何であるか。『創世記』注解第三巻からの抜粋[1]:「またそれらは、諸々の季節と諸々の日と諸々の年の諸々の印になりなさい[2]」。

 諸々の発光体――それらは太陽と月と諸天体に他ならない――が、「諸々の印になっている[3]」ことに関して理解することは、絶対に必要な事柄に属する。キリストの信仰とは無縁の諸国の多くの人たちが運命に関する問題で欺かれ、諸々のいわゆる惑星と黄道帯にある諸天体と係わり合いによって地上のすべての事柄――個々の人間に関することがや、おそらく非理性的な動物たちに関する事柄ままでも――は、自分たちに生じるのだと思い込んでいる。しかし彼らだけではなく、(キリストを)信じるに至ったと思われている多くの人たちも人間の諸々の行い必然化されているのではないか、それらは、諸々の天体が様々なふちに従って成し遂げるのとは別の仕方で起こることはなんとしても不可能なのではないかと思案している。そのようなことを教える人たちの帰結は、我々の自由意志を全面的に否定することであり、したがって賞賛も非難も、好ましい諸行為も非難に値する諸行為も(全面的に否定することである)

もしも事情がそのようなものなら、告げ知らされた神の裁きに属する諸々の事柄は無効になり、罪を犯した人たちに対して彼らは懲らしめられるとする諸々の脅迫も無効になる。また、より優れた諸々の事柄に献身した人たちに対する数々の賞賛も数々の至福も無効になる。それらはどれ一つとして、もはや合理的に起こることはないだろう。もしも人が、みずから教えるそれらの事柄の帰結の数々を見極めるなら、信仰は虚しいものとなろう。キリストの到来も、律法と預言者たちとを通した経綸の一切も無駄なことであり、キリストを通した神の諸教会を組織するための使徒たちの諸々の労苦も無駄であった。したがって、そのように大胆に言う人たちにしたがえば、まさかキリストも、その誕生に際して、諸々の天体の動きの必然に囚われて生れた、すべての事を行い、苦しんだことになってしまうのではないか。なぜなら万物の父なる神が、彼に驚異的な力の数々を賜ったのではなく、諸々の天体がそのようにしたからである。また、信じるに至った人たちは諸々の天体によって神を信じるように導かれたと主張することも、そのよう無神論的で不敬虔な諸言説の帰結である。

 しかし、我々は彼らに尋ねたい。いったい神は何を意図してそんな世界をつくったのか。すなわち、そのような世界にいる或る人たちは婦人に対して数々の情欲を抱きながら、その淫乱をまったく責められない。また他の人たちは、獰猛な動物たちの状態を帯びており――なぜなら一切の動きは、彼らをそのようにせしめたからであり、神が一切をそのように秩序づけたからである――、自分たち自身を、残酷極まりなく極めて非人間的な諸々の行いと数々の人殺しと数々の略奪に委ねたと。いったい我々は、人々の内に起こる諸々の事柄と、彼らによって犯された実に無数の罪とについて何を言うべきだろうか――それらの高級な言説の唱導者たちが、それらを一切の非難から解放し、悪しくかつ咎められるべき仕方で為された諸々の事柄の原因を神になすり付けているとすれば。



[1] 本節は、オリゲネスの労作の一つ『創世記注解』(13)の内の第3巻からの抜粋であり、まとまって現存する唯一の断片である。エウセビオスの『教会史』(VI,24,2)によれば、その注解の第8巻までがアレクサンドリア時代に作成されたことになっており、おそらく『諸原理について』の著述と平行して執筆されていただろう。なお、『諸原理について』(I,2,6)で、オリゲネスは、『創世記』(1,26)の注解に着手していないと述べているが、それは、『創世記』(1,14)を扱うこの注解の第3巻がまだできていなかったことを意味しない。

[2] Gen.1,14.

[3] Gen.1,14.