10 しかし、神の予知は、それが把握した諸々の事柄に必然性を課さないことについて、上で述べたことに加えて、更に次のことが言われなければならない。すなわち、諸々の()文書の多くの箇所で、神は預言者たちに、悔い改めを宣べ伝えるように命じている――それを聞いた者たちが改心するか、自分たちの諸々の罪の中に留まり続けるか否かを予知していないふりをして。『エレミア書』で言われている通りである:「彼らはおそらく聞き、悔い改めるだろう[1]」と。もちろん神は、彼らが聞くか否かを知らないで、「彼らはおそらく聞き、悔い改めるだろう」と言うのではない。むしろ神は、両者が起こり得ることの同等性を、言われたことから示している:あらかじめ告げられた神の予知が、必然性の印象を呈することによって――改心することが彼らに掛かっていないかのように――聞いた人たちを落胆させないようにするためであり、それ自体が諸々の罪の原因にならないようにするためである。あるいは逆に、予知された美を知らないからこそ[2]、悪徳に逆らい立ち向かうことによって徳の内に生活することができる人たちにとって、予知が弛緩の原因にならないようにするためである――予言された事柄は絶対に実現するとして、彼らが罪に対してもはや毅然と立たないで。このようにして、予定は、将来の美の妨げのようになるかもしれない。

 ともかく、世界のすべての事柄を有益に配慮する神は、実に、将来の諸々の事柄に対して我々の眼を暗くしたのは理にかなっている。なぜなら、それらの事柄の認識は、悪徳に対抗することから我々を離れさせるとともに、ひとたび把握されたと思われるや、我々が罪と戦わずに、それに隷属するように仕向けてしまうかもしれないからである。同時に、ある人の許に、その人が絶対に善人になるという予知が訪れたなら、そのような予知は、その人が美しくかつ善くなることを逆に妨げるだろう。なぜなら、美しくかつ善くなるには、我々が現に持っている諸々の事柄に加えて、さらにもっと多くの熱意と緊張が必要だからである。絶対に美しく善くなるだろうという認識があらかじめ把握されたなら、その認識はその努力を緩めるだろう。それゆえ、我々が善くなるかどうか邪悪になるかどうかを我々が知らないのは有益なことである。



[1] Jr.26,3; Hom.Jr.XVIII,6(拙訳).

[2] 直訳している。「善行を行うことが予知されているのを知らないからこそ」という意味である。