11 しかし、神は将来の諸々の事柄に対して我々の眼を暗くしたと我々は述べたのであるから、問題になっている『出エジプト記』の或る言葉を次のように説明できるのではないか、あなたは考察してください。すなわち、「誰が、聞こえないようにし、話せないようにし、見えるようにし、見えないようにしたのか。主なる神である私ではないか[1]」とある。こうして神は、同じ人の目を見えないようにしたり、見えるようにしたりした。しかしそれは、目前の諸々の事柄を見えるようにしたのであって、未来の諸々の事柄に対して見えないようにしたのである。聞こえない人や話せない人に関して説明する必要は、差し当たりない[2]

 しかしながら、我々の意志に掛からない極めて多くの事柄が、我々の意志に掛かる諸々の事柄の原因になっていることを、我々も認めよう。それらの事柄が起こらなければ――私は、我々の意志に掛からない諸々の事柄を言っている――、我々の意志に掛かる或る諸々の事柄は行われないだろう。他方で、我々の意志に掛かる或る諸々の事柄は、我々の意志に掛からない先行する諸々の事柄の帰結として成し遂げられる。とはいえ、その同じ先行する諸々の事柄に基づいて、我々が行なう諸々の事柄とは別の諸々の事柄を行うことも可能である。

 もしも人が、我々の意志は一切のものから解放されているのだから、我々に降り掛かって起こる何らかの諸々の出来事のゆえに我々が何らかの諸々の事柄を選ぶのではないということを要求するなら、その人は、自分が世界の一部であり、人間たちや周囲のものとの交わりによって取り囲まれていることを忘れている。

 かくして、神の予知が予知された諸々の事柄を絶対的な必然性を持って引き起こすものではないことは、概略的にではあるが、適度に証明されたと私は思う。



[1] Ex.4,11.

[2] 直訳すると、「聞こえない人や話せない人に関して説明することは、目下の時節に属していない」となる。何度も言うが、拙訳を参考にして講義あるいは執筆を行うことは厳禁である。