12 さて、ケルソスは、何らかの予知によって予言された事柄は、予言されたがゆえに起こると考えている。しかし我々は、それを承認せず、予言した者は、将来の事柄が起こると予言したからと言って、その原因にはならないと主張する。むしろ、将来の事柄はたとえ予言されなくても起きるかもしれないのであって、その将来の事柄が、そのことを予知することの契機を予知する者に提供したのであると、我々は主張する。それが生起すると予知する者の予言の内にあるのは、それに尽きる。或る事柄は生起する可能性があるとともに、生起しない可能性もある。或る事柄はそれらの内のいずれかである。また我々は、予知する者が、生起することと生起しないことの可能性を密かに取り去ることによって「或る事柄は絶対に起きるのであって、別様に起きることは不可能である」というようなことを言うとは、主張しない。そのようなことは、我々の意志に掛かる何らかの事柄に関する予知にも当てはまる――神的な諸文書に従っても、ギリシア人たちの数々の記録に従っても。実に、問答法に関わる人たちの許で駄弁と呼ばれている言論は、ケスソスの場合に限っては詭弁にならない。しかしそれは、健全な言論に従えば、詭弁である。

以上のことが理解されるようにするには、私は、()文書から、ユダに関する諸々の予言や、裏切る彼に関する我らの救い主の予知を利用したい。また、ギリシア人たちの諸々の記録からは、ライオスに関する託宣を利用したい――それは(目下の)議論を妨げないから、差し当たりそれを真実であると認めた上で。

さて、ユダに関しては、『詩編』第108編で救い主の口から言われている。その始めはこうなっている:「神よ、私の賛美に黙らないでください。罪人たちの口と狡猾な者たちの口が私に向かって開かれました[1]」。『詩編』の中で言われている諸々の事柄に注意すれば、あなたは、次のことを見出すでしょう:すなわち彼は、救い主を裏切ることが予知されているのと同様に、裏切りの原因でもあり、彼の悪徳のゆえに予言の中で言われている数々の呪いに値するということ。実際、彼はそのような事柄を引き受けたとしなければならない。「彼は、彼らのために慈しみの業を行うことに留意せず、貧しい人と物乞いを迫害した[2]」とある。したがって彼は、慈しみの業を行うことに留意して、迫害した者を迫害しないでおくこともできた、(慈しみの業を)行わないこともできた。しかし、彼は迫害した。その結果、彼は、予言における彼に対する数々の呪いに値する者になった。

ギリシア人たちに対して私は、ライオスに対して次のように言われている託宣を利用したい――諸々の表現どおりにであれ、あるいは、悲劇作家がそれらの表現と等価なものを書き記した場合であれ。さて、将来の諸々の事柄を予知した人によって、彼に対し次のように言われている:

あなたは、鬼神たちの意思に反して、子どもたちの諸々の耕地に種を蒔いてはならない。

あなたが子どもをもうければ、生れた息子は汝を殺すだろう。

あなたの家はすべて、血をかぶるだろう[3]

 この託宣においても、ライオスには、子どもたちの諸々の耕地に種を蒔かないでいることも可能だったことが明らかに示されている。実際、託宣が不可能なことを彼に命じることはなかっただろう。他方で、種を蒔くことも可能であった。しかし、いずれの場合も必然的に定められていなかった。結局、子どもたちの諸々の耕地に種を蒔くことに用心しなかった彼は、種を蒔いたことによって、エディプスとヨカステと(彼らの)息子たちに関わる悲劇に述べられた諸々の事柄を蒙ることになった[4]



[1] Ps.109,1-2.

[2] Ps.108,12,16.

[3] Euripides, Phoenissae,18-20.

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第2巻第20節の前半からの抜粋である。その後半は次節で引用される。盗用厳禁。