13 そればかりか、駄弁と呼ばれる議論――それは詭弁である――は、次のようなものである:たとえばそれは、病気の人に言われるが、その人を、健康のために医者を利用することから引き離す詭弁のようなものである。実にその議論は、次のような内容である:病気から立ち直ることがあなたの定めなら、あなたが医者を招いても招かなくても、あなたは立ち直る。しかしもしも、病気から立ち直らないことがあなたの定めなら、あなたが医者を招いても招かなくても、あなたは立ち直らない。病気から立ち直ることか、あるいは、立ち直らないことがあなたの定めである。だから、あなたが医者を招いても無駄だろうと。

しかし、その議論に対して、何かしら次のような議論が見事に対置される。もしも子づくりをすることがあなたの定めなら、あなたが婦人と結ばれようが結ばれまいが、あなたは子づくりをするだろう。そればかりか、子づくりをしないことがあなたの定めなら、あなたは子づくりをしないだろう。子づくりをすること、あるいは、子づくりをしないことがあなたの定めである。だから、あなたは婦人と結ばれても無駄である。

この場合、婦人と結ばれない人が子づくりをすることは為す術なき不可能事なのであるから、婦人と結ばれることに訴えるのは無駄なことではない。同様に、もしも病気から立ち直ることが、医者からの道によって成立するとすれば、必然的に医者は受け入れられる。したがって、「あなたが医者を招いても無駄だろう」という言葉は、虚偽である。

 我々は、以上のすべてを取り上げた。それは、極めて賢いケルソスがそれらを引用して、次のように言ったからである:「彼は、神であるから予言した。そして、言われたことは絶対に起こらねばならなかった」と。もしも彼が「絶対に」という言葉を「必然的に」と言う意味で理解しているなら、我々は彼に同意しない。なぜなら起こらないことも可能だったからである。しかし、もしも彼が、「絶対に」という言葉を「起こるだろう」という意味で言っているなら――これが真実であることは妨げられない――生起しないことがたとえ可能であっても、それは議論を損なわない。実際、イエスが裏切りに関する諸々の事柄や否認したペトロに関する諸々の事柄を真実に予言したことの必然的な結果として、イエスが、彼らの不敬虔で冒涜的な行いの原因になるのではない。我々の考えでは、「人間の内に何があるか[1]」を知っていたイエスは、彼の邪悪な品行を見抜いていた。さらにイエスは、彼が金銭欲の深い人物であること、また師について然るべき思慮を堅固に抱かなかったことから、彼が敢えて行おうとしたことを見抜いていた。それでイエスは、何よりもこう言ったのである:「私とともに、鉢に手を入れた者、その人が私を裏切るだろう[2]」と。



[1] Jn.2,25.

[2] Mt.26,23. 本節は、『ケルソスへの反論』第2巻第20節の後半からの抜粋である。前半は、前節で訳出した。