創世記注解3巻から

14 さて、我々は、諸々の天体が人間たちにおける諸々の事柄の作動因ではなく、単なるしるしに過ぎないことに関しても、(ケルソスと)論争することにしよう。次のことは明らかである:もしも、諸々の天体の何らかの特定の布置が、人間をめぐって起きた或る諸々の事柄の作動因であると見なされるなら――実に、そのことに関する論拠が探究されているとしよう――、たとえば、特定の人間をめぐって、いま現れた布置が、他の人間あるいは他の人間たちをめぐる諸々の過ぎ去った出来事を作りだしたとは見なされ得ないだろう。なぜなら生み出すものはすべて、生み出されたものに先立つからである。ところが、それらの事柄を請け合う人たちの諸々の学識によれば、布置に先立つ諸々の事柄が、人間たちをめぐって予言されると見なされる。

実際、彼らは、特定の仕方で特定の人間の時を掴むと、諸々の惑星の各々が鉛直面に沿って、黄道帯のどの部分に、あるいは、その黄道帯におけるどの度数のところにあるかを把握できると請け合う。黄道帯のどのような天体が日出の地平にあるか、またどのような天体が日没の地平にあるか、いかなる天体が南中にあるか、またいかなる天体が反南中にあるのかを把握できると請け合う。

そして、諸々の天体――彼らはそれらが彼らに対して布置を成すと考えている――が、或る人物の誕生の時に特定の布置を成していたと彼らが定めると、彼らが調べている人物の出生の時によって、彼らは、将来の諸々の事柄を検討するだけでなく、過ぎ去った諸々の事柄や、誕生以前の諸々の事柄、話題にしている人物の懐妊以前に起こった諸々の出来事まで検討する:父親について――彼はどこの国の者か、富裕か貧しいか、身体は健全か傷ついているか、品行はより善いかより悪いか、無一文か物持ちか、斯く斯く然々の生業を持っているか。彼らは、また同じことを、母親についても、年長の兄弟姉妹たちについても――もしも彼らがいれば――する。