15 差し当たり我々は、彼らが位地における諸々の真実を把握していると認めるとしよう。ただし、まさにそのことに関して我々は、後に、実際はそうでないことを示すつもりである。そこで我々は、諸々の天体によって、人間たちの諸々の行為が必然的に決定されていると想定している人たちに尋ねたい:どのようにして、今日の然々の特定の布置が過ぎ去った諸々の事柄を作動したのかと。実際、時間的に先立つ諸々の事柄に関する真実を見出す手立てがまったくないとすれば、天において特定の動きをした諸々の天体が――それらの天体がそのような状態に至る以前に起こった過去の諸々の出来事を作動しなかったのは明らかである。しかし、たとえそうであろうとも、彼らが真実を言っていると認める人はおそらく、将来の諸々の事柄に関して言われた諸々の事柄に注目して、彼らは――諸々の天体は作動するのでなく、しるしになっているという点で――真実を語っていると言うだろう。そして、もしも誰かが次のように主張するなら、すなわち、諸々の天体は過去の諸々の事柄を作動したのでなく、他の諸々の布置がそれらの生起の諸々の原因になった。現在の布置はしるしになっただけである。将来の諸々の事柄は、或る人物の誕生のときに成立した布置によって明示されると。そのように主張する人は、或る諸々の真実は作動する諸天体から理解され、他の諸々の真実はしるしになっているだけの諸天体から理解されることを諸天体から証明できるとして、その違いを示すべきである[1]。もしも彼らが、その違いを提示することができないとすれば、人間たちに関する諸々の事柄は何一つとして、諸天体から生起するのではなく――先に我々が述べたように、結局のところ――しるされているにすぎないと、彼らは潔く同意すべきだろう。

(それは)あたかも、諸々の天体からでなく、神の精神から、何らかの預言的な言葉を通して、過ぎ去った諸々の事柄と将来の諸々の事柄を人が把握したかのごとくである。なぜなら、神が各人によって為される諸々の事柄を知っていることが、我々の意志に関する論拠を損なわないと我々が先に証明したのと同じように、神がしるしにするために配置した諸々のしるしも、我々の意志を妨げないからである。

 しかし、将来の諸々の事柄を預言的に含んでいる巻き物のように、一切の天も、神の巻き物であるかのように、将来の諸々の事柄を含むことができる。それゆえ、『ヨセフの祈り[2]』の中で、ヤコブによって、「私は、天の諸々の平板の中に、あなた方とあなた方の息子たちに起こる諸々の事柄を読んだ」言われている言葉も、同様に理解され得る。おそらく、「天は巻き物のように巻かれるだろう[3]」という言葉も、未来の諸々の事柄のしるしとして含まれる諸々の言葉が完遂されるだろうということ、いうなれば――諸々の預言は生起することによって成就されたと言われるのと同じように――成就されるだろうということを示している。造られた諸々の天体も、「(それらは)諸々のしるしになりなさい[4]」と言う言葉に従って、そのようにしるしとなるだろう。エレミアも、我々を我に帰らせ、しるしになっていると思われている諸々の事柄――おそらく、さらに、そこから到来するだろうと憶測されている諸々の事柄――に関する恐れを取り除くために、「あなた方は、天の諸々のしるしを恐れてはならない[5]」と言っている。



[1] 意訳した。直訳は次の通り:「そのように主張する人は、或る諸々の真実は作動する諸天体から理解されることと、他の諸々の真実はしるしになっているだけの諸天体から理解されることを、諸天体から証明できることの違いを示すべきである」。なお、本節は、初期オリゲネスに特に顕著な、修辞を無視した言い回しの典型である(盗用厳禁)

[2] オリゲネスによってのみ知られるユダヤ教の黙示録。彼は、ここに抜粋された『創世記注解』と『ヨハネによる福音注解』(II,31)でそれに言及している。もちろん、全文は伝えられていない。

[3] Is.34,4.

[4] Gn.1,14.

[5] Jr.10,2.