16 我々はさらに、諸々の天体は作動因にはなり得ず、しるしにしかなり得ないのはどうしてかに関する第二の取り組みを見てみよう。入手し得る多くの誕生から、一人の人間についての諸々の事柄を把握することができる。我々は、これを仮説として言っている――それらに関する知識が人間たちによって入手され得ると我々が同意するとした上で。例を挙げて言うと、或る人が或る事柄を被り、盗賊たちの手に落ちて殺害され死ぬだろうということに関して、彼らは、その人の個人的な誕生と――その人が多くの兄弟を持っているとして――その兄弟たち一人ひとりの誕生から把握することができると主張する。彼らは次のように考えている。すなわち、一人ひとりの誕生は、盗賊たちに殺されることになる兄弟を含んでいる。同様に、父の誕生と母の誕生と、妻や彼の息子たちや使用人たちや最愛の者たちの誕生も、そして、おそらく殺害する人たち自身の誕生も、殺されることになる兄弟を含んでいると。

 それならば、それほど多くの誕生によって含意される人が――その点で彼らに同意するとして――どのようにして、(他の)諸々の誕生でなく、この特定の誕生の諸天体の布置の下に生まれることができるのか。実際、或る人物の誕生における布置はそれらの事柄を作動したが、(他の)人たちの誕生における布置は(それらを)作動したのではなく、しるしになったにすぎないと主張しても、それは信じがたい。実際、(それら)すべての人たちの誕生が、その都度、特定の人物が殺害されることの作動因を含んでいたのであり、その結果、五十人の諸々の誕生の内に――私は仮説として言っている――或る特定の人物が殺害されることが含まれていたと言うのは、愚かなことである。

 私は、彼らがどのようにして次の事態を保持することができるのか知らない。すなわち、ユダヤにおけるほとんどすべての人たちの誕生時の布置が、彼らが八日目に割礼を受けて、先端の諸部分を切断するばかりか、炎症にも引き寄せられ、諸々の傷にも陥るようになり、この世への誕生と同時に、医者たちを必要とするような布置になっているという事態。アラビアにいるイスラエル人たちにおける(ほとんどすべての)人たちの布置が、すべての人たちが十三歳のときに割礼をうけるような布置になっている――そのように彼らについて語られている――という事態。また、或る特定のエチオピア人たちにおける或る特定の人たちの(布置が)諸々の膝の諸々の膝蓋骨が除去されるよなものになっており、アマゾン族たちの(諸々の布置が)両乳房の一方が除去されるようなものになっている事態[1]。一体どのようにして諸々の天体が然々の諸部族に対してそれらの事柄を作動するのか。たとえ我々が精通しても、我々はそれらに関して、何かしら真実を語るまでに至ることはできないだろうと、私は思う。

 ともあれ、予知を可能にする諸々の方途がそれほどたくさん提示されているにもかかわらず、どうして人間たちは、鳥占いと生贄占いが作動因を含まず、しるしになっているだけだ――誕生星占いはもちろん、天体観測ばかりでなく――と言うに至ってしまったのか私は分からない。実際、もしも(或る事柄は)知られるのだから――(それが)知られることを我々が認めたとして――、その認識をもたらしたものから(その事柄が)起こるとすれば、なぜ諸々の出来事は、諸々の鳥占いからよりもむしろ諸々の天体から、生贄にされた諸々のものたちの諸々の内臓や諸々の流星からよりもむしろ諸々の鳥占いから、将来、存在するようになるのだろうか。諸天体が諸々の人間的な事柄の作動因であるということの論破には、差し当たり、以上で十分だろう[2]



[1] アマゾン族(VAmazo,nej)は、乳房(mazo,j)のない女性たちという意味。ギリシア神話に出てくる女武人族で、弓矢を引きやすいように右の乳房を切り落としたとされる(盗用厳禁)

[2] 訳者は、直訳を心がけ、読者の便宜を図って意訳という名の敷衍はしなかった。拙訳が分かりにくいと思う者は、原文を参照してもらいたい。