17 ところで、我々が譲歩した事柄――なぜなら、人間たちは、諸々の天的な布置と諸々のしるしと、それらがどのような諸々の事柄の諸々のしるしになっているかを把握することができるということが、(我々の)議論を損なわないから――が真実かどうかを、我々は今、検討することにしよう。

 さて、それらの事柄に精通する者たちは言う:誕生日占いに関わる諸々の事柄を正確に把握しようとする者は、問題の天体が黄道十二宮のどの星座の方向にあるかを知る必要があるばかりでなく、黄道十二宮のどの分の何度のところにあるかを知らねばならない。もっと正確な人たちは、何分の何秒のところまで知らなければならないと。さらに彼らは、諸恒星に対する関係を吟味しつつ、諸惑星のそれぞれについて、それを行わねばならないと言う。また、日の出の地平に、黄道十二宮のどの星座があったかを知る必要があるばかりか、その部分や度数、分や秒を知る必要があると、彼らは言う[1]

では、時は、高々、黄道十二宮の半分を含んでいるだけなのに、どうして人は、諸々の時の比例的区別――たとえば、或る人物が生まれたのは、第四時であるが、さらにその半時に、あるいはその四分の一時に、あるいはその八分の一時に、あるいはその十六分の一時に、あるいはその三十二分の一時であることを知るための区別――を求めずに、分を把握できるのか[2]

彼らは言う:しるされる諸々の事柄が甚だしく異なるのは、時全体の無知によってではなく、時の比の無知によってであると。ともかく、生まれ出る双子の場合、時間上の間隔はしばしば短い。そして、諸々の出来事や諸々の行為の数々の違いが――彼らが主張するところによると――諸々の天体の位置と、地平にある黄道十二宮の部分とによって、双子に生じるが、その部分は、時を観察したと思われている人たちによって把握されていない。実際、一方の人の誕生に対する他方の人の誕生の間隔が三十分の一時であると言うことは誰もできない。ともあれ、時を把握することに関する諸々の事柄に関する彼らの主張を(差し当たり)認めておくことにしよう。



[1] ギリシア語原文の論調から、オリゲネスは、占星術者たちの説をかなり雑に紹介している。

[2] 訳者(朱門)は直訳している。拙訳を疑う者は原文を見よ。