しかし、もしも彼らの内の幾人かが、神について弁明する目的で、それらの事柄の根源を決して持たない別の善良な神が存在すると主張し、それらすべての事柄をデーミウールゴス(創造主)に帰すのであれば、第一に彼らは、自分たちが望んでいること、すなわち(デーミウールゴスは)正しい方であることを証明できないだろう。彼らによるとかくも多くの悪しき事柄の父が、一体どのようにして正しい方であると理にかなった仕方で宣言されるのか。第二に、彼らが自分たち自身についてなんと主張するか吟味されるべきである。彼らは、諸々の天体の影響の下にあるのか、それとも彼らは自由であり、(この地上の)生活の内にあっても上方から彼らに働きかけるものを何も持たないのか。もしも彼らが、諸々の天体の下にあると言うなら、そのように理解することを彼らに許したのは諸天体であり、より上方に模造された神に関する教説を、デーミウールゴスが一切の運動を通して教唆したのは明らかである。それは彼らの望むところではない。しかしもしも彼らが、自分たちは諸天体に関するデーミウールゴスの諸法の埒外にあると答えるなら、彼らによって言われた事柄が無証明の言明とならないようにするために、いっそう強い説得力を以って我々を導くべきである――(天体の影響下にある)誕生と運命の下にある精神と、それらから自由な他の精神との違いを示すことによって。そのような者たちを知っている人たちにとっては、彼らが説明を求められても、けっして説明を与えることができないのは明らかである。

 上に述べたことに加え、諸々の祈りも余計なものとなる。なぜならそれらは、甲斐なく行われるからである。実際、もしもあれこれの事柄が必然的に起こり、諸天体がそれを為すのであれば、何ごともそれらの天体の相互の係わり合いなしには起こり得ないのであろうし、あれこれの事柄を我々に授けてくれるように我々が神に願っても理にかなわないことになろう。しかし、どうしてその説明――運命の論題を巡って多くの人たちの許で一笑に付された教説の不敬虔さ[1]を明らかにする説明――をさらに引き延ばす必要があるだろうか。その概要を示すには、上に言われたことでも充分である。



[1] この「一笑に付された教説の不敬虔さ」の直訳は、「吟味されることなく打倒された教説の不敬虔さ」である。