20 それらの次に、天の諸々の発光体は諸々のしるしとしてあると信じているが、それらの問題に対して人並み以上に詮索好きな人たちによって提出された諸々の事柄に惑わされている人たちのために、神がそれらのしるしを天の内につくった理由が何であるかを吟味し証明することが残されている。

まず、次のように言うことができる。すなわち、諸々の存在者の一つひとつに関わる一切の覚知を内包する神の精神の偉大さ――したがって、偶発的で極めて取るに足らない事柄も、決して神の神性(の覚知)から逃れない――について信じられている諸々の事柄は、いわば数的に無際限な事柄を神の精神は同様にそれ自身の内に内包するという見解を含んでいる。もちろんそれは、証明によって明らかなのではなく、一切の本性を超えた生まれざる精神に相応しいものとして信じられた見解である。

したがって、経験によってそのことが、人間に比べて偉大な者たちや現在の束縛から解放された聖なる魂らによって把握されるように、神は、――あたかも天の内に諸々の文字や諸々の刻印を諸々の天的な周回を通して読み取るかのように――神の諸々のしるしを読み取ることを学んだ者たちや(これから)学ぶ者たちをつくった。

神が至福な者たちへの自己顕示のために、幾つかのしるしをつくったとするのは驚くべきことではない。()文書は、ファラオに次のように言っている:「私があなたを立てたのはそのことのため、つまり、あなたの内で私の力を顕示するため、私の名を全地で告知するためである[1]」と。実際、もしもファラオが、神の力の顕示と全地におけるそのみ名の告知のために監視されていたのなら、神の力のどれほどの顕示を天の諸々のしるしが含んでいるか、あなたはお考えください。なぜならすべてのしるしは、代の始めから終わりまで、神に相応しい書物である天の内に刻印されているからである。

次に私は、諸々のしるしは諸々の人事を経綸する諸力に露わにされている――彼らがそれらの幾つかを覚知するためだけのために、あるいは、それらの幾つかを働くために――と推測している。それはたとえば、我々の許にある諸々の書物の中には、創世に関する諸々の事柄やその他の何らかの諸神秘のように我々が覚知するために書かれたものもあれば、諸々の掟に関する諸々の事柄や神の諸々の定めのように我々が覚知して行うために書かれたものもあるのと同じように。したがって、み使いたちや諸々の神的な力が美しく詠むことのできる天の諸々の文字の中には、み使いたちや神の奉仕者たちによって読まれ、彼らが読むことによって喜ぶような文字が含まれるとともに、彼らが諸々の定めの如くに受け取って行なうための文字も含まれていると言えよう



[1] Rm.9,17; cf.Ex.9,16.