21 しかし我々は、法律上の諸々の事項と類比した性質を、天と諸天体とが持っていると言っても間違ったことにはならないだろう。もしも、人間とは異質の一層劣った諸々の働きが、天の内にしるされており、かつ予め知られた諸々の事柄の何がしかを行うとしても、それらの働きが、神の諸々の文字によって教唆され、いま働いている諸々の事柄を働くということには必然的にならない。むしろ、人間たちが罪を犯すとき、彼らは、神が斯く斯く然々の不正が自分たちによって犯されるのと予知していると知って不正を働くのではなく、自分たち自身の邪悪さに従って不正を働く。それと同様に、敵対する諸々の力は、神が、諸々の悪事を企む人間たちや諸力の邪悪さを予知していても、破廉恥極まりない各自の選択的意志に従って成し遂げる。

それに対し神聖なみ使いたちや、奉仕のために遣わされた諸々の奉仕の霊たちは[1]、当然のことながら、いわば神の法律の内に書かれた諸々の命令から何らかの命令を受け取って、命令されたとおりに、然るべきときに、然るべき仕方で、かつ然るべき程度に、諸々の一層優れた事柄を行う。実際、神的である彼らが、行き当たりで明確な目標もなく次のことをするに至るのは馬鹿げている:たとえば、アブラハムに何らかの助言をすること、イサクに何らかのことを行うこと、ヤコブを危険から守ること、然々の預言者の霊の前に立つこと。彼らは、行き当たりでもなく、偶然にでもなくそれを為すために、神の書物を読む。このように彼らは、自分たちに与えられた諸々の事柄を行う。

 我々が前に述べたように、我々が行なう諸々の事柄を、あるいは敵対する諸々の働きが我々に対して成し遂げる諸々の事柄を、我々は各自の選択的意志に従って行う。我々が罪を犯すときは、指図のない選択的意思に従って。神に喜ばれる諸々の事柄を行うときは、指図のある選択的意志に従って――もちろん、み使いたちや神的な諸々の文字、聖なる奉仕者たちの助けを伴いながら[2]



[1] Cf.He.1,14.

[2] 『創世記』注解第三巻からの抜粋は、ここで終わる。