しかし我々は、「諸々の発光体は、諸々の印になれ[1]」という言葉を吟味しているうちに、以上の事柄に行き着いたことを思い起こそう。何らかの諸々の事柄に関して真実を知っている人たちは、諸々の行為の目撃者であって、然々の諸々の事柄を健全に表示する――彼らは、働きを受けた者たちや働きかけた者たちの受動や能動を見ている――。あるいは彼らは、諸々の出来事の原因となっていない人たちから(それらの)話を聞いて、然々の諸々の事柄を知る。しかし今のところ、働きかけた者たちや働きを受けた者たちが、自分たちの為したことや受けたことを述べるとき、その場に居合わせなかった人を、行なわれた諸々の事柄の覚知へと導く可能性を(目下の)議論から排除することにする。

そこで、諸々の出来事の原因では決してない人から、然々の諸々の事柄が然々の人たちに起こったことや降り掛かるだろということを教えられた人がもしも、或る起こった事柄や起こるであろう事柄について教えた人が、然々の行為が生起したことの原因で決してないということを判断しないとすれば、その人は、然々の諸々の事柄が起こったことや起こるであろうことを言い表した人が、みずから教えている諸々の事柄を行ったか行うであろうと考えることになる。しかし彼は、明らかに、間違って考えることになる。

それはあたかも、裏切り者のユダに関する諸々の事柄を予示する預言書を読んだ人が、未来の事柄を学び、それが成し遂げられるのを見て、その書物が後に起こった然々の事柄の原因である――なぜなら彼は、その書物から、ユダによって行われるであろう事柄を学んだからである――と見なすようなものである。あるいは彼は、その書物が原因であるとは推定せず、先ずその書物を書いた人、すなわち(それを)もたらした神が原因であると推定するようなものである。

しかし、ユダに関して預言された諸々の事柄に関わる諸々の表現を吟味してみると、それらの表現は、神がユダの裏切りの製作者ではなかったこと、神はただ、神の責任を離れて彼の邪悪さから為されるであろう諸々の事柄を予知していたことを明らかにしただけである。同様に、もしも人が、神がすべての事柄を予知していることに関する言葉の深みに入り、神がご自分の予知に関する諸々の言葉を刻み込んだ諸々の箇所の深みに入るならば、その人は、予知している方も、予知している方の予知に関する諸々の言葉の諸々の刻印を受け入れた諸々の箇所も、予知された諸々の事柄の原因で決してないことを理解するだろう[2]



[1] Gen.1,14.

[2] 訳者(朱門)は、日本語の自然な流れを顧慮せず、原文を愚直に訳している。読みにくいであろうがご容赦願いたい。そもそも原文それ自体が、「数」を厳密に区別して、読みにくくなっている。真にもって言い訳に過ぎないが、原文に忠実な訳とは、原文の難解さをも伝えるものでなければならないと訳者は常々考え、それを安直に訳している。