そこで先ず我々は、ギリシア人たちの或る者たちが危惧していることを考察してみよう。彼らは、もしも神が将来起こる諸々の事柄を予知しているなら、諸々の事柄は必然的に起こったのであり、我々の自由意志は決して保たれないと考え――彼らはそのように言う――神に関する尊い教説を是認するよりも、我々の自由意志を否定し、したがって賞賛と非難、諸徳の承認と諸悪の非難を否定する不敬虔な教説を敢えて受け入れた。

 さらに、彼らは次のように言う:もしも代々の前から神が、然々の者が不正を犯し、然々の諸々の不正を行うことを知っているのであれば、もしも神の認識が誤りなきものであれば、そのようになると予知された者は、必ず然々の諸々の不正を行って不正な人になるだろう。彼が不正犯さないことは不可能である。彼が不正を犯すことは必然的に定められており、神が予知していることと別のことを行うのは不可能である。もしも彼が別の何かを行うことが不可能であれば、また、いかなる人も、諸々の不可能な事柄を行わないからといって非難されることがないとすえば、我々が不正なもの者たちを非難するのは無駄である。彼らは、不正者と諸々の不正から、別の諸々の積みに言い及ぶ。次に彼らは、反対の事柄から、実直であると思われている諸々の事柄に言い及ぶ。彼らは言う:神が将来の諸々の事柄を予知しているということから、我々の自由意志は保たれ得ないことが必然的に帰結すると。