彼らに対して次のように言われねばならない:神は、宇宙創造の始源を思い巡らしたとき――何ものも原因なしに生じない――その精神によって、将来諸々の出来事の一つひとつに目を通し、或る事柄が起こったときは他の事柄が(それに)続き、続いて起こったその事柄が生じたなら、他の事柄が続き、またこの事柄が成立したなら、他の事柄が存在するようになると見た。このように神は、諸々の事柄の終極にまで目を通し将来起こる諸々の事柄を覚知した。もちろん神は、覚知した諸々の事柄の一つひとつについて、それが生起することが原因に必ずしもなるわけではない。

実際、或る人が無学のゆえに向こう見ずとなり、その向こう見ずのゆえに、滑りやすい道を無思慮に歩むのを人が見て、彼が(やがて)滑って倒れるのを把握しても、その人は、彼の滑落の原因にはならない。同様の仕方で神も、各人がどのような者になるかを予知し、彼がそのようになることの諸原因を予知することによって、各人はあれこれの罪を犯し、あれこれの実直な行いをすることを把握すると理解されねばならない。

そして、予知が将来の諸々の出来事の原因でないと言う必要があるとすれば――なぜなら神は、罪を犯すと予知された人が罪を犯しても、その人に関わらないからである――、我々は、逆説的であるが真実を言うことにしよう。すなわち将来の事柄が、それに関する然々の予知の原因であると。実際、予知されたから生起するのでなく、生起しつつあるから予知されたのである[1]

しかし、区別が必要である。すなわち、もしも「それはあらゆる意味で起こるだろう」ということを、もしも人が、「予知された事柄は必然的に起こる」という意味で解釈するなら、我々はその人に同意しない。たとえば、ユダが裏切り者になることが予知されても、ユダはまったく必然的に裏切り者になると、我々は言わない。実に、ユダに関する諸々の預言()の中に、ユダの数々の非難や譴責が記載されているが、それは彼の責任を万人に示すためである。もしも彼が裏切り者になるのが必定であり、他の使徒たちと似た者になることが彼には不可能であったとすれば、彼に非難を課すことはできなかっただろう。そのことは、我々が以下に引用する言葉によって明示されるのではないか、あなたは考えるべきである。それはこうなっている:「彼の孤児たちを憐れむ人がいなくなるように。彼は、彼らのために慈しみの業を行うことに留意せず、貧しい人と物乞いと心を痛めた人を迫害し、死に追いやった。彼は呪いを愛し、それは彼についた。彼は祝福を望まなかった。それは、彼から遠ざけられるだろう[2]」と。

他方、もしも人が「それはあらゆる意味で起こるだろう」ということを、次のような事態を意味すると言って解釈するなら、すなわち「何らかの然々の諸々の事柄が起こるだろう。しかし、それらは別の仕方で生起することも可能だった」と言って解釈するなら、我々は、それは真実であるとして同意しよう。実に神は、欺かれることはあり得ず、生起し得るあるいは生起し得ない諸々の事柄に関して、それらが生起しあるいは生起しないことを思慮することができる。



[1] Cf.C.Cels.II,20; De Orat.,6,3; Com.Rm.I,3;VII,8. この段落を読んで講義ないしは著作をした者は、その旨を明記しなさい。

[2] Ps.108,12,16-17.