しかし我々は、そのことを次のような仕方で、もっと明瞭に言うことにしよう:もしもユダがペトロと同じように使徒であることが可能なら、神はユダについて、彼がペトロと同じように使徒として留まるだろうと理解することも可能である。もしもユダが裏切り者になることが可能なら、神は彼について、彼が裏切り者になるだろうと思慮することも可能である。もしもユダが裏切り者になるなら、神は、いま述べた二つの可能性に関するご自分の予知によって――それらのうちの一つに実現が可能であるとして――ユダが裏切り者になることを予知するだろう。なぜなら神は、真理を知っているからである。しかし覚知が関わっている事柄が別の仕方で生起することも可能である。そして神の覚知は次のように言うかもしれない:或る人はそれを行うことが可能であるが、反対のことを行うことも可能である。しかし、両者が可能であるが、私は彼がこのことを行うだろうと知っていると。或る人間は飛び去れないと神が言うのと同じような仕方で、神は、たとえば或る人について神託を与え、その人は思慮深くなれないとは言わないだろう。なぜなら人間には飛び去る能力は決して存在しないが、思慮深くなることと放縦になることの能力は存在するからである。

 それらの二つの能力が存在するのだから、改心を促す教育的な諸々の言葉に注意しない人は、より悪い能力へと自分自身を委ねる。それに対し、真実を求め真実に従って生きることを望む人は、より善い能力へと自分自身を委ねる。前者は、諸々の真実を求めない。なぜなら彼は、快楽に傾いているからである。後者は、それらについて吟味する。彼は、諸々の共通観念と励ましの言葉とによって捕らえられているからである[1]。もう一度言うと、前者は、快楽を捕らえる。彼は、快楽を直視できないからでなく、(快楽と)戦わない。後者は快楽を見下す。彼は、快楽の内にしばしば生じる恥辱を看取する。



[1] 「諸々の共通観念」は、もちろんストア派に由来する概念で、一般的な倫理的諸観念を意味する。他方、「励ましの言葉」は善行を勧める「み言葉」をさすだろう。