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質料について。それは造られざるものではなく、諸悪の原因でもないこと。パレスチナのエウセビオスの『福音的準備』第七巻から[1]

 二つの造られざるものが同時に実在するのは不可能であるというのを、あなたも知らないわけではないと、私は思う――あなたが次のことを先取りし、議論に加えていたのが、私の了見違いでないとすれば:つまり、神は質料から区別されること、あるいは逆に、神はそれから分かたれざるものであることのいずれか一方を主張しなければならないのは、絶対に必然であるということである。実際もしも人が、神は(質料に)結び付けられていると言うつもりなら、彼は、造られざるものは一つであると言うことになるだろう。なぜならそれらの一方は、隣接するものの部分になるだろうか。それらが互いの部分なら、二つの造られざるものは存在しないだろう。我々は、様々な部分を多くの被造物に切り裂くのでなく、むしろ議論が要求するように、多くの部分からなる人間が一つの被造物のとして神によって造られたと主張する。同様に、もしも神が質料から区別されないなら、唯一の造られざるものが存在すると言わねばならない。

 逆に、もしも人が、(それらは)区別されると言うなら、両者の中間的にあって、両者の区別を示すようなものが存在する必要がある。実際、相互の隔たりを可能にする第三者が存在しなければ、隔たりの内に一方を他方と区別して吟味することはできないからである。これは、その場合に限って成り立つばかりでなく、すべての場合に成り立つと言っていいだろう。実際、二つの造られざるものに関して我々が述べる議論は、三つの造られざるものが措定されるなら、その分だけうまく進むのは必然である。なぜなら我々は、それらについて、それらが互いに区別されているのか、あるいは逆に、一方は隣接するものに結び付けられるのかを尋ねているからである。他方、もしも人が、(それらは互いに)結び付けられていると言いたいなら、その人は、前者の場合と同じ議論を聞くことになるだろう。逆に、もしも(それらが)区別されている(と言いたい)なら、その人は、区別を成り立たせるものの必然的な実在を避けることはできないだろう。しかし、おそらく人は、諸々の造られざるものに関して主張されるに相応しい第三の議論が存在すると言うかもしれない。すなわち、神は質料から区別されてもおらず、逆に部分として結び付けらていもいない。神は、いわば場所の内にあるかのように質料の内にある、あるいは、質料が神の内にあると言うかもしれない。その場合、その人は、その帰結を聞くべきである。すなわち、もしも質料が神の場所であると我々が言うなら、必然的に神は場所的に包含されており、質料に対して限定されていると言わなければならない。そればかりか、質料と同様に神も無秩序に運ばれ、静止することもなく、みずから(の意志)に基づいて留まることもないのは必然である。なぜなら神がその内にあるところの質料は、様々な時に様々な仕方で運ばれるからである。それらの事柄に加えて、神は諸々の劣ったものの内にあると言わなければならなくなる。実際、もしも質料が乱雑であったとき、神がそれをより優れたものに変えることを選んで秩序づけたとすれば、神がかつて諸々の無秩序なものの内にあった時がある。当然、私は、次の論題を尋ねたい:すなわち、神は質料を満たしていたのか、それとも、質料の或る一部の内にあったのかと。もしも人が、神は質料の或る一部の内にあると主張しようとするなら、神はどう勘案しても質料より小さいと言うことになろう――もしも質料の一部が神全体を包含しているとすれば。また、(神は)質料全体の内にあると言うなら、その人は、神がそれをどのようにして造形したかを考えるべきである。実際、神の何らかの収縮が存在し、その収縮によって、神は、後退したところを造形したと言わなければならない。あるいは、後退の場所を持たないとすれば、神は質料と同時に、まさに自分自身を造形すると言わなければならない。

 それに対し、もしも人が、質料が神の内にあると言うなら、同様に次のことも吟味する必要がある:すなわち(その場合)、神は自分自身から自分を分離し、大気の内に動物たちの諸々の種が実在するかのように自分自身を区別し分割することによって、諸々の被造物を自分の内に包含しているのか、それとも、(それらを)あたかも場所の内に、水を大地の内に包含するかのように包含するのかを。実際、もしも我々が、大気の内にと言うなら、神は分割可能であると言うのが必然である。他方、大地の内に水があるように、質料は乱雑で無秩序であり、さらに質料は諸々の悪も含んでいるとするなら、神は、諸々の無秩序なものと諸々の悪の場所である主張するのが必然である。それは、吉凶なことではないように私には思え、むしろ危険である。あなたは、神が諸々の悪の製作者でないことを主張するために、質料の存在を望んでいる。しかし、あなたはそのように主張しようと決断することによって、神を諸悪の包含者であると主張しているのである。実に、もしもあなたが、諸々の実在する被造物から、造られざる質料が実在することを推測すると主張するなら、私は、造られざる質料が実在するのは不可能であることの証明のために詳細な議論をしたい。しかし、諸々の悪の発生が、そのような推測の原因であると主張したのであるから、それらの(諸悪の)検討に向かうのがよいと私には思われる。実に、どのような仕方で諸悪が存在するかということに関する議論と、質料を神の基礎に据えることによって神は諸悪の原因でないと主張するのは不可能だということに関する議論が明らかになれば、そのような推測は除去されると私には思われる。



[1] 本章は、エウセビオスの書に引用されたオリゲネスの作品の抜粋とされているが、実際は、オリンピアのメトディオスの『自由意志論』(PG17,157.6-178.9)の一部である。