親愛なる人よ、では、あなたは諸々の悪も諸々の実体であるとあなたは言うわけですから、実体の定義を吟味する必要があります。実体は、何らかの物体的構成体であると、あなたに思われるか。

思われる。

で、この物体的構成体そのものは、それ自体で実在し、その存在を得るために何らかのものの存在を必要としないのか。

そのとおり。

では、諸々の悪は、何らかのものの諸々の働きであるとあなたには思われるか。

そのように私には見える。

諸々の働きは、働くものが現存するとき、存在を得るのか。

そうだ。

では、働くものが存在しなければ、それが働きかけるものも決して存在しないだろう。

そうである。

 したがって、実体が何らかの物体的構成体であるとすれば、また、物体的構成体はその存在を得るためにそれが依存するところの何らかのものを必要としないとすれば、他方、諸悪は何らかのものの諸々の働きであるとすれば、また、諸々の働きは存在を得るためにそれらが依存するところの何らかのものを必要とするとすれば、諸悪は実体でないことになろう。もしも諸悪が諸々の実体であり、また、殺人が悪であるとすれば、殺人は実体になるだろう。しかしながら、殺人は何らかのものの働きであるから、殺人は実体ではないことになろう。もしもあなたが、働くものは実体であることを望むなら、私も同意する。たとえば人殺しは人間である。彼は、人間である限り、実体である。他方、彼が行う殺人は、実体ではなく、実体の業である。我々は、時に人間を、彼が殺人を行ったがゆえに悪と言い、また時に、善行を行ったがゆえに善と言う。それらの名称は、実体に付帯して生じたことから、実体に絡みつく。それらは実体そのものではない。実に殺人は実体ではない。また、不貞も、同様の諸悪の何がしかも実体ではない。むしろ、文法術から文法学者が言われ、修辞術から修辞学者が言われ、医術から医者が言われるが、実体が医術ではなく、まして修辞術でもなく、文法術でもない。むしろ実体は、それに付帯して生じた諸々の事柄から名称を取る。それゆえ実体がそれらから命名されるのは妥当であるが、それらのいずれでもない。同様に、諸悪であると思われている諸々の事柄から、実体は名称を獲得するが、それらのいずれでもないと私には思われる。そこでどうか、同様に考えてもらいたい:もしもあなたが或る他の人が人間たちによって諸悪の原因であると精神の中で見なすなら、その人も、人間たちの内で働き諸悪を行うように唆す限りで、彼が行う諸々の事柄から悪である。その人は、諸悪の実行者であることによって、悪であると言われる。ところで、人が行う諸々の事柄は、その人自身ではなく、彼の諸々の働きである。彼は、その諸々の働きから悪という名称を言われるに至る。もしも我々が、彼は行う諸々の事柄であると言い、彼が諸々の殺人と諸々の不貞と諸々の窃盗とそれらに類する諸々の事柄を行うなら、彼はそれらであることになろう。そして、もしもそれらが彼であり、それらは生じているとき存に立を得、生じていなければ存在することを止め、それらが人間たちによって生じるとすれば、人間たちが人間たち自身の実行者であり、存在することともはや存在しないことの原因になろう。それに対し、もしもあなたが、それらは彼の諸々の働きであると言うなら、彼は、行う諸々の事柄から悪であることを得るのであって、(彼の)実体となっている諸々の事柄から悪であることを得るのではない。我々は、実体に付帯して生じた諸々の事柄から(彼は)悪であると言われると主張するが、それらの事柄は実体ではない。それは、医者が医術から言われるのと同じである。もしも各人が、各自が働く諸々の事柄から悪であり、彼が働く諸々の事柄が存在の始まりを得るなら、彼が悪であることを始めたのであり、それらの諸悪も始まったのである[1]。もしもそのとおりであるとすれば、悪は始めのないものではなく、諸悪は生ぜざるものではない――なぜなら(我々は)諸悪は彼によって生じたと言ったからである。



[1] 諸悪はその存在の始まりを持つということを意味する。なお、訳者(朱門)は、読みやすさを顧慮せず、基本的に直訳に徹している。