さらに私は、質料そのものについて、簡単にあなたに伺いたい。どうか私に言ってください:質料は何かしら単純なものか、複合的なものか。なぜなら、諸々の生成物の違いが、目下の議論で、そのような吟味に私を向かわせるからである。もしも質料が何かしら単純で単一種であるとすれば、また、世界は複合的で、様々な諸実体と(それらの)混合から存立を得ているとすれば、世界が質料から成っていると言うことはできない。なぜなら諸々の複合物は、一つの単純なものから存立を得ないからである。実際、複合物は、何らかの諸々の単純なものの複合を含意している。

 それに対し、もしもあなたが質料は複合物であると言おうとするなら、あなたは、それが諸々の何らかの単純物か複合されたものだと言うしかないだろう。しかし、もしも(質料が)諸々の単純物から複合されたものなら、諸々の単純物はかつてそれら自身で存在していたのであり、それらが複合されて質料が成ったのである。実にこのことから(質料が)造られたものであることが証明される。実際、もしも質料が複合されたものであるなら、また、諸々の複合体が諸々の単純物から存立を得ているとすれば、質料が存在しない時期すなわち諸々の単純物が邂逅する前の時期がかつてあったことになる。そして、質料が存在しない時期がかつてあったなら、また、造られざるものが存在しない時期がかつてあったとすれば、質料は造られざるものでないことになろう。したがって、造られざるものは多くあることになるだろう。なぜなら、もしも神と諸々の単純物――質料はそれらの単純物から複合された――とが造られざるものであるとすれば、造られざるものは二つだけではないだろうから。ところであなたには、諸々の存在者は何一つとしてそれ自身に対立しないと思われるか。

思われる。

水は火に対立するか。

対立するように私に見える。

同様に闇は光に、熱は冷に対立し、さらに湿は乾に対立するか。

そのとおりであると私に思われる。

したがって、諸々の存在者は何一つそれ自身に対立せず、それらとの間で互いに対立するとすれば、それらは一つの質料ではなく、一つの質料に由来するものでもないだろう。もう一度、これに似た議論をあなたに伺いたい。諸々の部分は互いの排除者でないとあなたに思われるか。

思われる。

で、火と水は質料の部分であるか。他の諸々の物も同様か。

そうである。

ではどうか。水は火の放逐者であり、光は闇の放逐者であり、それらに似た他の諸々のものも(他方の)放逐者であると、あなたに思われないか。

思われる。

したがって、諸部分が互いの排除者でないとすれば、質料の諸部分が互いの排除者なら、(質料の)諸部分は互いの排除者でないことになろう。しかし、もしも諸部分が互いの排除者でないとすれば、それらは一つの質料に属するものではないだろう。いわんやそれらは、質料でもないだろう。なぜなら諸々の存在者のどれひとつとして、対立物という理由でそれ自身の排除者にならないからである。実際、それ自身に対立するものはない。なぜなら諸々の対立物は、諸々の他のものと対立するのが本性だからである。たとえば白は、それ自身に対立するものではない。それは黒に対して対立すると言われる。同様に光は、それ自身に対立しないことが示される。それは闇と対比してそのように現れる。他のありとあらゆるものは同様である。したがって、もしも質料が何が一つのものであるとすれば、それはそれ自身に対立しない。しかし、諸々の対立物がそのように存在するとすれば、そのような質料が存在しないことが証明される。

 以上の諸々の事柄は、パレスチナのエウセビオスの『福音的準備』第七巻から抜き出されたものである。彼が言うようには、それらは、キリスト者たちの間で無名な著作家でないマクシモスのものである。しかしそれらは、マルキオン派の人たちや他の異端者たちとのオリゲネスの対話――そこでエウトレピオスが判定し、メゲシオスが反論している――の中に言葉どおりに見出される[1]



[1] もちろんこの段落は、フィロカリアの編集者たちの加筆である。『福音的準備』の本文には、この段落の代わりに、次の段落が置かれている。

先ほど明らかにされた著作家は以上のように述べている。しかし、議論は十分な素描を得たので[1]、我々は、『福音的準備』の第八巻に移り、考察すべき課題の諸々の残りを成し遂げることにしよう――神を支援者として呼び求めながら。