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予知による選定は、自由意志を否定しないこと。「神の福音のために選び分けられた[1]」ということに関する『ローマの信徒への手紙注解』第一巻からの抜粋[2]

 第三に、「私は、神の福音のために選び分けられた[3]」と言うことを考察しなければならない。使徒は、『ガラテアの信徒への手紙』の中でも、自分自身について、それに類することを言っている。すなわち、「神が、私を私の母の胎内(にいるとき)から選び分け、ご自分の子を私の中で啓示することをよしとしたとき[4]」とある。神の予知によって予め選別された者こそ、予知された諸々の事柄が生起することの原因であるのを理解しない者たちは、そのような諸々の表現を捕らえ、それら(の表現)によって、構成と本性とによって救われる人たちを持ち込もうと考えている[5]。さらに或る者たちは、そのような諸々の発言によって、我々の自由意志を否定し、『詩編』の中で言われている「罪人たちは、母たち(の中にいるとき)から遠ざけられている[6]」という言葉に同意する。もちろん、続きの表現について問題にする人たちは、それに対して容易に対応することができる。こう書かれている:「罪人たちは、母たち(の中にいるとき)から遠ざけられ、腹(の中にいるとき)から惑わされ、諸々の偽りを語った。彼らの気持ちは、蛇に似ている[7]」。我々は、この表現を明瞭なものとして取り上げる人に聞きたい:母親たちから遠ざけられた罪人たちは、自分たちの母の腹から出ると同時に惑わされ、(彼らを)救う道から迷いだし、彼ら自身でその方向に働いたのか。しかし、母親たちから遠ざけられた罪人たちは、いったいどのようにして腹から惑わされ、諸々の偽りを語ったのか。彼らはたしかに、彼らが生み出された瞬間に、分節化された声を発し、何らかの諸々の偽りを述べるのを証明しないだろう[8]

 しかし、もしも我々が、(いま)吟味された書簡の中で予定に関して前面に打ち出されている諸々の事柄に注意するなら、より単純な人たちを神に対して(その)不正を非難する教えに引きずり込もうとする諸々の事柄を除去し、「母の胎内(にいるとき)から選び分けられ」、「神の福音のために選び分けられた」イエス・キリストの僕、使徒と呼ばれるパウロのために、弁明することができるだろう。次のような諸々の言葉がある:「私たちは次のことを知っている。神を愛する人たちにとっては、すべての事柄が善のために協働する。なぜなら彼らは、計画に従って招かれているからである。神は、予知する者たちを、さらにご自分の御子の像に似た者たちにしようと予め定めた。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となるためである。(神は)予め選び分けた者たちをさらに招いた。そして(神は)、招いた者たちをさらに義とし、義とした者たちにさらに栄光を与えた[9]」。



[1] Rm.1,1.

[2] 本章は、ギリシア語原文で残る数少ない『ローマの信徒への手紙注解』からの抜粋である。一部の欠落を除いて、その全貌は、ルフィヌスのラテン語翻訳によって知られる。詳細に関しては、読者がみずから調べよ。

[3] Rm.1,1.

[4] Ga.1,15-16.

[5] もちろん彼らは、グノーシス派である。

[6] Ps.57,4.

[7] Ps.57,4-5.

[8] オリゲネスは、『民数記講話』(III,4)で、この詩編の節に関して比喩的解釈の必要性を述べ、実際に比喩的解釈を行っているが、現存するそのギリシア語原文は曖昧である(拙訳参照)。曖昧な理由は明らかだろう。

[9] Rm.8,28-30.