言われている諸々の事柄の順序に、我々は注意しよう[1]。神は、先ず招いてから、義としている。神は、招かなかった者たちを義とすることはなかろう。神は、招きに先立って予定してから、招いている。神は、予定していない者たちを招くことはなかろう。実に彼にとって、招きと義化の始めは予定ではない。なぜなら、もしもそれが、続く諸々の事柄の始めとなれば、諸々の本性について馬鹿げた議論を持ち込む人たちは、最高の確信を持って勝ち誇るかもしれないからである。むしろ、予知が予定に優っている。実際、「神は、予知する者たちを、さらにご自分の御子の像に似た者たちにしようと予め定めた[2]」と(使徒は)言っている。したがって神は、将来の諸々の事柄の連鎖を予め凝視し、或る人たちの自由意志の敬神への傾斜と、この傾斜に続いて起こる敬神への突進とを察知する。そして(神は)、特に従って生きることに自分たち自身をいわば全面的に捧げる人たちを予知する。実に(神は)、現在の諸々の事柄を覚知するとともに、将来の諸々の事柄を予知する。(神は)このようにして予知した者たちを「自分の御子の像に似た者たちになるだろうと予定した」のである。

 したがって、見えざる神の像である神の子が存在するとともに[3]、彼の像が神の子の像と言われている。この像は、徳によって神の像の像になった神の子が取った人間的な魂であると私は思っている[4]。実に、神の像の像であると我々が考えるこの魂に似た者たちになるように神は予め定めたのである――彼らに関する予知によって(神が)予め定めた者たちを。

 それゆえ、将来の諸々の事柄の原因は神の予知であると見なされてはならない。むしろ、行なう者たちの諸々の突進に従って(それらが)起こるがゆえに、(神は)予知するのである。なぜなら(神は)、「すべての事柄を、それらの発生以前に知っている[5]」からである。また、すべての事柄をそれらの発生以前に知っている方として、然々の人たちを予知し、ご自分の子の像に似た者になるように予定したのであり、他の者たちが遠ざけられるのを知ったのである。しかし、それらに対し、もしも誰かが、将来存在するようになると神が予知した然々の諸々の事柄が生起しないことも可能ではないかと言い返すなら、生起しないことも可能であると我々は主張する[6]。また、生起しないことも可能であれば、生起しないことや生起することは必然ではまったくない。(物事は)決して必然から生起するのではない。むしろ、同じ諸々の事柄が生起しないことも可能である。しかし、諸々の可能的な事柄に関する論題は、論理的な熟練と熟慮を必要としている。それゆえ、自分の魂の目[7]を拭き清めた者のみが、諸々の証明の精緻に付き従うことによって、次のことを把握することができる。すなわち、諸々の些細な事柄に至るまで、何ごとかが多くの事柄になる可能性を秘めつつ存在すること――しかも、その多くの事柄の内の一つが将来存在するものになり、しかもそれが必然によらずに存在するようになること――が妨げられないのはどうしてかと。将来存在するものは、次のような仕方で予知される。すなわち、それは存在することになるが、必然によらず存在することになる、しかし、生起しないことも可能であるという仕方で。したがって、推測として語られた事柄でなく、真実に予知された事柄が存在することになる[8]



[1] 本節を参照して執筆や発表を行う者は、必ずそのことを明示しなさい。

[2] Rm.8,29.

[3] Col.1,15.

[4] 神の像は神の子であり、神の像の像は人間の魂であるという考えは、オリゲネスに一貫している。

[5] Suz.42.

[6] Cf.Philoc.23,8(Com.Gn.III); 23,13(C.Cels.II,20)

[7] プラトン的な概念で(Rep.VII,533D)概念である。

[8] この段落は、もちろん、この段落の冒頭の言葉「将来の諸々の事柄の原因は神の予知であると見なされてはならない。むしろ、行なう者たちの諸々の突進に従って(それらが)起こるがゆえに、(神は)予知するのである」に沿って理解されねばならない。