しかし人は、「計画に従って」という言葉を、我々が我々の議論を妨げるものとして等閑に付したと考えてはならない。それと言うのも、パウロが次のように言っているからである:「私たちは次のことを知っている。神を愛する人たちにとって、すべての事柄が善のために協働する。なぜなら彼らは、計画に従って招かれているからである[1]」。しかし、この計画に従った招きの原因を、使徒も次のように言って直ちに与えている:「神は、予知する者たちを、さらにご自分の子の像に似た者たちにしようと予め定めたこと(を我々は知っている)[2]」。神を愛する者たち以外のいったい誰が、神の計画による義とする招きの中に置かれるのに相応しいだろうか。「神を愛する人たちにとって、すべての事柄が善のために協働する[3]」という言葉が、計画と予知の原因が我々の自由意志に掛かっていることを完全に示している。なぜならそれはほとんど次ことを言っているからである:すべての事柄が善のために協働するのは、神を愛する者たちがその協働に値するからであると。同時に我々は、諸々の反対の事柄を主張する人たちに尋ねたい。彼らは、以上の事柄に答えるべきである。仮定として、或る諸々の事柄が我々(の自由意志)に掛かっているとしよう。しかも我々は、自由意志を否定する者たち対してそれを言っている――与えられた仮定から、彼らの議論が健全でないとして論駁されるために。さて、自由意志が存在するとして、将来の諸々の事柄に注意する神は、はたして、自由意志を持つ人たちのそれぞれによって自由意志から行われる諸々の事柄を予知するだろうか、それとも予知しないのだろうか。まったくのところ、予知しないだろうと言うことは、すべてを俯瞰する神の精神と偉大さを知らない人のすることである。しかし、もしも彼らが、(神は)予知しているだろうということを認めるとすれば、我々は彼らに再び尋ねたい:してみると、自由意志があると認められているのに、彼が予知していることが将来の諸々の事柄の生起する原因なのか。それとも(将来の事柄が)生起するだろうから、神は予知するのであって、各自によって自由意志から生起する将来の諸々の事柄の予知は生起することの原因に決してならないのではないか。そうなれば、どのような事柄が生起しようとも、自由意志を持つ者として創造された者が、あれではなくこれを働くことは可能である[4]



[1] Rm.8,28.

[2] Rm.8,29.

[3] Rm.8,28.

[4] もちろん、以上のオリゲネスの見解には、着想を与えた先行者がいるが、盗用する不届き者がいるので、ここには明記しない。