それらの事柄やそれらに類する事柄が言われる場合、次の言葉が守られる:「すばらしい。善い忠実なしもべよ。お前は、わずかな事柄に忠実であった。私はお前を多くの事柄の上に立てよう。お前は、お前の主の喜びの中に入りなさい[1]」。すべての賛辞(について)も同様である。また、次の正当性も守られる:「邪悪で臆病なしもべよ。お前は、私の金を銀行に入れるべきだった[2]」。同じ仕方で、右側にいる人たちに正当に言われた次の言葉も守られるだろう:「私の父に祝福された者たちよ、私の許に来なさい。世の設置以来あなた方に準備された王国を受け継ぎなさい。あなた方は、私が空腹だったとき、私に食べ物を与えたくれた[3]」云々と。(同じ仕方で)、左側にいる人たちに言われた次の言葉(も守られるだろう):「呪われた者たち、あなた方は私から離れて、悪魔とその使いのために準備された永遠の火に行きなさい。なぜならあなた方は、私が空腹だったときに、私に食べ物を与えなかったからだ[4]」云々と。

しかし、「(パウロが)神の福音のために選び分けられた[5]」という言葉や、「私を私の母の胎内(にいるとき)から選び分けた方[6]」という言葉が何らかの必然性を含んでいたとすれば、どうして彼は、理にかなった仕方で次のように主張することができただろうか:「私は、私の身体を抑えつけ従わせます――それは、他の人たちに宣べ伝えている私自身が偽者にならないためです[7]」。「私が福音宣教しないとすれば、それは私にとって不幸です[8]」。それらの言葉から、次のことが明らかに証明される:もしも彼が、彼の身体を抑えつけ従わせなかったら、彼が他の人たちに宣べ伝えつつも偽者になり得たのであり、もしも彼が福音宣教しなかったとすれば、それが彼にとってなり得たということである。したがって、おそらくそれらのことに基づいて、すなわち神は、正当な選び分けの原因を見抜くことに基づいて、神は彼を「母の胎内(にいるとき)から選び分け」、「神の福音のために彼を選び分けた」のだろう。すなわち、彼が他の人たちに述べ伝えつつ偽者にならないように注意し、身体を押さえつけ従わせるだろということ、また、彼が福音宣教しないことは自分にとって不幸になるだろうと知り、神のみ前で不幸の内にあることを畏れ、沈黙せず福音宣教することを、神は見抜いていたのである。また、彼を彼の母の胎内(にいるとき)から選び分けた方、また、彼をご自分の福音のために選び分けた方は、次のことを見抜いていた:「並外れて数々の苦労の内にあり、並外れて数々の監獄の内にあり、比較を絶して殴打の内にあり、頻繁に死の内にある――ユダヤ人たちによって五度、三十九回の鞭を受け、三度も棒で殴られ、一度は石打たれる[9]」だろうと言うこと;しかも彼が、艱難は忍耐をもたらすと承知して(これを)耐え、それらの事柄を、諸々の艱難の内に誇りながら苦しむだろうということを[10]、神は見抜いていたのである。それゆえ、将来に何になるかを予知された彼が神の福音のために選び分けられ、彼の母の胎内(にいるとき)から選び分けられたのは相応しいことである。もちろん、彼が神の福音に選び分けられたのは、何かしら卓越した性質を持つ本性――しかも、構成上、(彼と)同類でない人たちの諸々の本性に優る本性――の故にでなく、後に生起する諸々の行為――それらの行為はそれぞれ、使徒的な意図と選択によって生起する――が予め知られたことによる。しかし、いま、『詩編』からの言葉に専念することは時宜にかなっていない。なぜならそれは、逸脱になるからである。それゆえ、神が許してくださるなら、我々が詩編を解釈するとき、その固有の場所で(その言葉に)専念されるだろう。「選び分けられた者」という言葉に関しては、以上で十分すぎるとしよう[11]



[1] Mt.25,21.23.

[2] Mt.25,26.27.

[3] Mt.25,34-35.

[4] Mt.25,41-42.

[5] Rm.1,1.

[6] Ga.1,15.

[7] 1Co.9,27.

[8] 1Co.9,16.

[9] 2Co.2,23-25.

[10] Cf.Rm.5,3-4.

[11] 以上は、『ローマの信徒への手紙注解』第一巻からの抜粋である。