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或る諸々の事柄は善であり、ある諸々の事柄は悪であることについて。それらの事柄は、諸々の選択意志の内にあるか、非選択意志の内にあること――キリストの教えによれば[1]。しかし、アリストテレスが考えているようにではない。『詩編』第四章――「『誰が我々に諸々の善を示すだろうか』と多くの人たちが言う」――に関する注解からの抜粋[2]

 人々の許で、或る諸々の事柄は善であり、ある諸々の事柄は悪であることに関する探究がさかんである。実に或る者たちは、諸々の善と諸々の悪は非選択意志的であると主張している――たとえば、彼らは、快楽は善であり、苦痛は悪であると断言する[3]。他の人たちは、諸々の選択意志の内に諸々の善と悪を限り、諸々の徳とそれらに従う諸々の行為だけが善であり、諸々の悪徳とそれらに従う諸々の働きは悪であると言う[4]。さらに、第三の人たちがいて、彼らは、(善と悪を)混ぜ合わせ、諸々の善と諸々の悪は、諸々の選択意志と諸々の非選択意志の内に同時に存在すると主張する[5]。信者たちの中で、諸々の善に関する問題に関して学識を愛好する多くの人たちは、当然のことながら、彼らのもっともらしさに引きずり回され、「誰が我々に諸々の善き事柄を示すだろうか[6]」と言うだろう。

さて、諸々の善の本性が諸々の選択意志の内にあることを、裁きに関する(聖文書の)節を受け入れる人なら誰でも、ためらうことなく認めるだろう。実際、「すばらしい。善い忠実なしもべよ。お前は、わずかな事柄に忠実であった。私はお前を多くの事柄の上に立てよう。お前は、お前の主の喜びの中に入りなさい[7]」という言葉を人は聞くが、その言葉の内に善があると(聖文書は)言っているからである。また、善い人によって彼の心からもたらされるものも善である。それは救い主が言っているとおりである:「善い人は、彼の心の善い倉から諸々の善をもたらす[8]」と。要するに、善い木のすべての実は、それが選択意志的であれば、善である――たとえば、「愛、平和、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制[9]」。それに対し、それらに反する諸々の事柄が悪である。

しかしながら、キリストの教えによれば、善と悪が存在する。そうであれば、諸々の非選択意志の中にも、それらが探求されねばならない。たとえ諸々の非選択意志の内に何らかの善や悪があるとしても――後ほど我々が吟味するとき、おそらく示すように――諸々の非選択意志を諸々の選択意志に混ぜ合わせる人たちによって言われた諸々の事柄は、決して善でも悪でもないだろう。なぜなら彼らは、次のように考えているからである:諸々の善の内、あるものは魂にかかわり、あるものは身体にかかわり、あるものは外的である。諸々の悪についても同様で、魂については、徳と徳に即した諸々の行為があるとともに、悪と悪に即した諸々の行為がある。身体についても、健康と良好と美しさがあるとともに、病気と不良と醜さがある。諸々の外的な事柄に関しては、富裕と高貴な生まれと栄誉があるとともに、貧困と卑賤な生まれと不名誉がある[10]



[1] 訳者(朱門)は直訳している。善悪は、意志に依存するか否かというのが、本章の主題である。

[2] 本章は、ギリシア語原文で残る数少ない『ローマの信徒への手紙注解』からの抜粋である。一部の欠落を除いて、その全貌は、ルフィヌスのラテン語翻訳によって知られる。詳細に関しては、読者がみずから調べよ。

[3] エピクロス派の見解。

[4] ストア派の見解。

[5] ペリパトス派(アリストテレス派)の見解。

[6] Ps.4,7.

[7] Mt.25,21.23.

[8] Lc.6,45.

[9] Ga.5,22-23.

[10] パリパトス派の定義の見解。