さて、(聖なる)諸文書によると、諸々の善には三種類あり、諸々の悪には三種類あるということに関して提出された諸々の事柄を解くことのできない人たちを甚だしく当惑させ得る諸々の事柄は、上で言われた数々の事柄から明らかである。信者の人たちの中でも明らかに純朴な人たちばかりでなく、キリストに即した知恵を約束する人たちの中の幾人かも、その誤りに惑わされた。彼らは、そのような諸々の事柄を創造主の約束に掛かるものであって、諸々の脅迫に関しては、言い回しから明示される諸々の事柄を越えて何ものも意味されないと考えている[1]

さて、以上のようなことを(聖なる)諸文書から推測するすべての者たちに対して、次のように尋ねなければならない:諸々の罪が問われない預言者たちは律法を守ったか否か:たとえば、無一文極まりないエリア――彼は食べるためのパンを自分自身の許に持たなかったため、シドンのサレプタにいる婦人のところに遣わされた[2];エリシャ――彼は、シュネムに極めて小さな宿と寝台と粗末な燭台を手に入れ[3]、やがて病にかかり亡くなった[4];イザヤ――彼は、三年間、裸と裸足で歩いた[5];エレミア――彼は、泥の水溜めに投げ込まれ[6]、常に嘲られ[7]、その結果、荒れ野に住むことを祈願した[8]:そしてヨハネ――彼は、諸々の荒れ野の中で暮らし、諸々のイナゴと野の蜂蜜の他は何も摂取せず、腰を皮の帯で巻き、駱駝の諸々の毛で身を覆っていた[9]。彼らは、これらの人たちも律法を守ったと認めるだろう。そこで我々は、(彼らに)尋ねたい:彼らが善であると考えている諸々のものが、(律法を)遵守したそれらの人たちにもあったのか否か。 (そのことを)示すことができない彼らは、次のいずれかに追い込まれるだろう:敬虔な人たちに与えられると言われる諸々の約束は偽りである、あるいは、真実であるとしても転意的解釈が必要である。もしも彼らが強いられて比喩的解釈に向かうなら、彼らの想定――すなわち、律法は、身体的な病と悪であると見なされる諸々の外的な事柄で不敬虔な者たちを脅かし、諸々の健康な身体と富が、神に従ってきた者たちにあるだろうと約束していることに関する彼らの想定――は破棄されるだろう。



[1] 聖文書を文字通りに受け取ろうとするグノーシス主義派が暗示される。

[2] Cf.1R.17,9.

[3] Cf.2R.4,8-10.

[4] Cf.2R.13,14.

[5] Cf.Is.20,3.

[6] Cf.Jr.38,6.

[7] Cf.Jr.20,7.

[8] Cf.Jr.9,1.

[9] Cf.Mt.3,1.4.