しかし、諸々の悪の内にある人たちがそれらの悪を尊大に考え、誇りに思うことがどうして愚かなことでないのか。なぜなら、諸々の艱難が悪であり、使徒が諸々の艱難を誇りにしていると言うなら[1]、彼が諸々の悪を誇りにしているのは明らかである。これは愚かなことである。しかし、使徒は愚かではない。してみると、聖人のそのような諸々の災難は悪ではない。彼は、万事において艱難にあっても、窮することなく、途方にくれても見捨てられることはなかった[2]。試練にあっても殺されることはなかった。貧者であると思われていたが、多くの人たちを豊かにした。何も所有していないと想定されたが、すべてのものを獲得していた[3]。実に、諸々の財貨の世界全体は信者のものだが、不信仰者には一オボロスもない[4]

それでも、()文書によれば、三種類の善が存在するとともに、明らかに三種類の悪も存在すると想定する人たちには、義人たちは常に多くの悪の内にあることが付きまとう。なぜなら、「義人たちの諸々の艱難は多い[5]」と述べる預言は真実だからである。さらに、ヨブに起こった諸々の事柄を何らかの悪であると考える人たちが、それらの事柄に言及するのも場違いではない。しかし、彼を取り囲んだ諸々の試練を極めて高貴に耐えた後で、宣命が彼に言っている:「あなたが義人であることが明らかになるため以外の別の仕方で、私があなたと関わったと、あなたは考えるのか[6]」。実際、もしもヨブが、他ならぬ彼に降り掛かったあれこれの諸々の災難によって、義人であることが明らかになったとすれば、どうして我々は、彼の義が明らかになったことの諸々の原因は、彼にとって実に諸々の悪であると言うことができるだろうか。それらの事柄が何が付きまとおうとも、悪魔は、聖人とって悪ではない。ともかくヨブにとって悪魔は悪ではなかった[7]。なぜなら「神を愛する人たちのために、神はすべての事柄を善のために共に働いてくださる――計画に従って招かれた人たちのために[8]」とあるからである。

 さらに、以上の諸々の事柄に付け加えて、 (諸々の聖)文書の内にある諸々の事柄が善であると見なされるなら、義人が言葉どおりの諸々の祝福に将来いるだろうということは明証性に反することであると、我々は言う。実際、聖人に関する長い物語は、吟味してみると、そのような諸々の(文字通りの)解釈に反している。実に、聖人が将来、高利貸しとなって、多くの民の銀行を都市ごとに開設し[9]、諸々の貸し出しと諸々の取り立てに奔走し、諸々の禁止されている取り引きを行うだろうと想定することは考えられない。実に、「義人は、利息を目当てに自分の金を与えず、諸々の贈り物を受け取って無実の人たちを害することはなかった。それらのことを守る人は、永遠に揺らぐことはないだろう[10]」。エゼキエルによれば、聖人は、利息や高利を目当てに金を与えなかった[11]

 熱が諸々の罪によって生じると考えることも、桁外れに無節操な者たちの教えである。なぜならそのような類の病気の諸々の原因は、しばしば、一目瞭然だからである:すなわち、周囲のものによって、あるいはあれこれの水によって、あるいはあれこれの食べ物によって。健康と富が義人たちにとって諸々の報いだとすれば、当然、不敬な者たちは誰一人として、健康になったり金持ちになったりしないはずである。むしろ健康は、魂の然々の状態であるとして探求されるべきであり、富はソロモンによれば魂の身代金に他ならないものとして探求されねばならない。ソロモンは言っている:「人の魂の身代金は、各自の富である[12]」と。それに対して、貧困――これについて「貧しい人は、脅迫に屈することはない[13]」と書き記されている――は避けられるべきものである。さらに諸々の切り傷と諸々の打ち傷と諸々の病気は、悪徳のゆえに不注意な魂たちの起こるものであると受け取られるべきである。それらについて、預言者も、それらの内にある人たちを非難して、言っている:「諸々の足から頭まで、切り傷も、打ち傷も、膿んだ傷も(癒されない)。軟膏も油も包帯も当てることはできない[14]」。



[1] Cf.Rm.5,3.

[2] Cf.2Co.4,8-9.

[3] Cf.2Co.6,9-10.

[4] 言うまでもなく、訳者(朱門)は直訳している。

[5] Ps.34,20.

[6] Cf.Jb.40,8.

[7] 無用な被造物は存在しないというのが、オリゲネスの考えである。盗用厳禁なんですけど。

[8] Rm.8,28.

[9] Cf.Dt.15,6.

[10] Cf.Ps.15,5.

[11] Cf.Ez.18,8.

[12] Pr.13,8.

[13] Pr.13,8.

[14] Is.1,6.