まったく鈍感でない人たちが、(聖なる)諸文書の取り沙汰されている諸々の言葉をみずから読んで聖なる霊の働きに相応しい理解に至るには、以上の諸々の事柄で十分である。しかし、然々の諸々の事柄は聖なる人たちに与えられるであろう諸々の善であり、然々の事柄は罪人たちに(与えられるであろう)諸々の悪であると考える人たちをさらに恥じ入らせるために、何らかの目的のために存在するものは、その目的よりも劣る」ということも付け加えられるべきである。たとえば、健康のために採用される諸々の切除と諸々の焼灼と諸々の塗布は、健康よりも劣っている。たとえそれらが、諸々の医学的な施療において善であると言われようと、それらは医術の諸々の終極因[1]ではなく、作動因であると理解しなければならない。医術に関しては、身体の健康が終極的善である。同じように、然々の諸々の善を獲得するために然々の諸々の掟が遵守されねばならないとすれば、また、諸々の報酬が身体的で外的なものであるとすれば、諸々の善行は、終極因として善なのではなく、むしろ諸々の善の作動因として善であろう[2]。実に、()文書が約束していると彼らが思っている富と、身体の健康は、数ある諸々の人徳の中でも、正義と敬虔それ自体と敬神とに優っているのだろうか。これらのことを受け入れるのは、徳に相応しい事柄を認識せず、それらよりも諸々の物質的なものを尊ぶ人たちのすることである。富んでいることと身体的に健康であることとが諸々の人徳に優っていると言うことは、何よりも馬鹿げている。当然のことながら、ある人たちはそれらの邪悪な教説によって、復活の後でも、諸々の最初の約束として、我々は然々の諸々の食物を食べたり飲んだりすることになると認めてしまった。また、子どもをつくることになると認めた人たちさえいる。それらの事柄が諸国の民に属する人たちに届くなら、キリスト者をして大馬鹿の評判を招くことになるだろう。なぜなら、信仰とは無縁な人たちの方が、はるかに善い諸教説を持っているからである。



[1] 「目的因」と訳すべきだが、訳文を統一するために「終極因」とした。

[2] ストア派の概念である。