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 我々は、諸々の神聖な言葉の吟味によって我々に明らかになった事柄を披露することにしよう。我々は、諸々の善と諸々の悪が諸々の選択的意志と諸々の非選択的意志の内にあると言うことでよしとすると主張した。しかし我々は、諸々の善の中でも非選択的な善の中に、健康と美と高貴な生まれと名声と富を数え入れなかった。そして我々は、可能な限りで、諸々の気を散らせる事柄をいわば梗概の形で解消することを試みた。そこで今、諸々の非選択的善とはいかなるものであるかを言わなければならない。

 「主が家を建てるのでなければ、家を作る人たちが精一杯働いても無駄である」という言葉と、「主が町を護るのでなければ、護る人が夜警をしても無駄である[1]」という言葉は真実である。また、進歩するすべての人がやがて家を建て、完全なすべての人がやがて町を護る。それに対し、主が家を建てず、主が護らないのであれば、建てる人の業は虚しく、守る人の警備は虚しいのである。それゆえ、建築に参与する主の力と、建築物を独力では仕上げることのできない人と共に建築する主の力は、我々の選択的意志の外にある善であろう。町の防衛についても同じことが理解されねばならない。実を作るという農耕的善が、農夫の技術に即した選択的意志と、摂理による非選択的意志――諸々の気候の混合と、十分な雨の提供という意味での非選択的意志――との融合であると私が言うとすれば、それと同じように、理性的存在者の善は、彼の選択的意志と、諸々の最善の事柄を選択した者に息を合わせる神的な力との融合である。したがって、美しく善き者になるためにだけ、我々の選択的意志と神的な阿吽の呼吸――この阿吽の呼吸は、我々に選択する余地はない――とが必要なだけでなく、美しく善き者となった者が徳の内に留まるためにも必要である。完成の域に達した人でも、美しさについて過度に思い上がり、自分自身がその原因であると言い出して、徳の獲得と維持のために他の人々(に与える)以上に多くのものを与えた方に然るべき栄光を帰さないなら、変節するだろう。何かしらそのようなことが、エゼキエルによると非の打ち所ないと言われた人が、自分の内に不法が見出されるまで、そのすべての道において歩んでいたが[2]、イザヤによると――暁に昇っていたが、後に地に落ちて砕けた明けの明星として――天から落ちた[3]ことの原因でもあったと、我々は思っている。それと言うのは、もしも誰かが完全であったとしても、神の知恵から離れるなら、その人は無きものと見なされるというのは、人間たちの子らについてだけ真実なのではなく、天使の位階と支配(の霊)の位階と、神が傍に臨在する神的な者たちの一切の位階についても真実だからである。それゆえ神聖な使徒はおそらく、我々の選択的意志が諸々の善を獲得するには神の力よりもはるかに劣っていることを覚っていたので、終極は、「望む者によるのでも、走る者によるのでもなく、憐れみを垂れる神による[4]」と言ったのである。もちろんそれは、憐れみを垂れる神は、望むことや走ることと関係ないという意味ではなく、望むことと走ることは、神の憐れみに比べれば、無きものに等しいという意味である。(使徒が)当然の如く、美の功績を人間の意思と走行によりも、神の憐れみに帰すのはそのためである。

 

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[1] Ps.127.1.

[2] Cf.Ez.28,15.

[3] Cf.Is.14,12.

[4] Rm.9,16.