我々は、かなり脇道に逸れてしまったと思われるが、我々が以上の事柄を検討したのは、「多くの人々は言った:『誰が我々に諸々の善を示すだろうか』[1]」という言葉に対して以上の事柄が必要であったと確信しているからである。(以上の)議論は、「誰が我々に諸々の善を示すだろうか」という多くの人日に対して、何が諸々の善であり、勿論、何が諸々の悪であるかを明らかにし、証明した。その目的は、我々が諸々の鍛錬と諸々の祈りを通して、諸々の善を獲得し、我々の諸々の魂から諸々の悪を退けるようになるためである。

 しかし、語っている矢先に(聖文書の言葉が)文字通りに受け取られたり、転用的に使われたりすることもあるからには、諸々の善と諸々の悪の言及が、諸々の身体的で外的な事柄――それらは諸々の健全な教説を持っていない人々の許で語られている――に関係づけられているのを我々が見出しても、驚くべきことではない:たとえば、「もしも我々が諸々の善を主の手から受け取ったのなら、我々は諸々の悪を荷わないのだろうか[2]」という『ヨブ記』の言葉のおいて;また、「諸々の悪が、主の許からエルサレムの諸々の門に降りてきた[3]」という『エレミア書』の言葉という言葉において。実際、「もしも我々が然々の有益で快い諸々の事柄を受け取ったのなら、辛く不快な諸々のこと我をすすんで耐えないだろうか」と言う代わりに、「もしも我々が諸々の善を主の手から受け取ったのなら、我々は諸々の悪を荷わないのだろうか」という言葉が言われている。また、「摂理に従って然々の事柄がエルサレムに生じた――そこに住む人たちが教育されるために」と主張する代わりに、「諸々の悪が、主の許からエルサレムの諸々の門に降りてきた」という言葉が書かれている。したがって、諸々の真相を理解する者たちは、諸々の名称にいつまでも拘泥すべきでなく、それらの名称が文字通りに諸々の真相を指示しているのはいつなのか、また、諸々の名称の偏狭さのゆえに、転用的に用いられているのはいつなのかを把握すべきだろう。たとえ救い主が、然々の事柄の癒しを行い、健康と諸々の視力と諸々の聴力を人々に授けたとしても、それらの上昇的解釈が優先的に探求されるべきである。なぜなら(聖文書の)言葉は、それらの物語を通して、魂の諸々の病苦を癒すことを示しているからである。そして、そのような諸々の事柄において、歴史的に語られる諸々の事柄は、当時の人たちの驚嘆のために起こったと理解することは、馬鹿げたことではない。それは、論証的で教育的な諸々の言葉に納得できない人たちが戦慄すべき諸々の力に肝を潰すことによって、教える方に同意するようになるためである。



[1] Ps.4,7.

[2] Jb.2,10.

[3] Jr.17,27; Mi.1,12.