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「主は、ファラオの心を固くした」という言葉について[1]

 「主は、ファラオの心を固くした。そして彼は、彼らを送り出すことを望まなかった[2]」。『出エジプト記』の中に、「主はファラオの心を固くした[3]」とか、「私はファラオの心を固くする[4]」という言葉がしばしばある。このことは、ほとんどすべての人たち――『出エジプト記』を信じない人たちであれ、信じていると言っている人たちであれ――を当惑わせる。

信じない人たちにとっては、他の多くの事柄とともに、そのことも、不信仰の原因であると思われる。なぜなら神について、神に相応しくない諸々の事柄が語られているからである。誰の心であれ、心の硬化を行いこと、しかも、硬化された人を硬化した方の意思に不従順にさせるために硬化を行うことは、神に相応しいことではない。また、彼らが言うには、神が自分の意思に不従順にするために或る人に働きかけることが、どうして馬鹿げたことではないのか。なぜなら、神が命じた諸々の事柄にファラオが従順であることを(神が)望んでいないのは明らかだからである。

信じていると思われている人たちにとっては、「主はファラオの心を固くした」という言葉によって、些細ならざる不一致が生じた。すなわち、(主は)創造主に他ならないと信じている人たちは[5]、神がいわばくじ引きで、「望む者を憐れみ、望む者を固くする[6]」――然々も者が彼によって憐れまれ、然々の者が固くされることの理由はない――と考えている。他の人たちは、彼らよりも善い反応をして、()文書には、彼らに対して隠された他の多くの意味があるのだから、そのことによって健全な信仰から離れるべきではなく、諸々の隠された意味の一つが、その()文書の健全な説明にもなると主張する。

創造主とは異なる別の神がいると主張する人たちは、それは義なる方であって、善なる方ではないと望んでいる[7]。彼らは、甚だしく素人であると同時に不敬虔で、義を善から分離して、義は正義なしに人の内に存在することができ、善は義から離れて人の内に存在することができると考えるようになってしまった。ところが、彼らはまさにそう言いながら、義の神に関して、独自の想定とは反対に、(神が)ファラオの心を固くし、その心が()ご自身に不従順にさせることを容認している。もしも、各自に相応しく報いる義なる方が[8]、自分たち自身の功績によってより善き者やより悪しき者になった者たちの各々に、適切であると(神が)知っているものを分け与えるのであれば、どうして、ファラオに対してより悪しき罪の原因となった方が義なる方になるのか。しかし、(神は)原因者であるばかりでなく、彼らの理解に基づく限り、ファラオが最高の義人になることに協働している。実に彼らは、義なる神の選択的意志の中に、ファラオの心の硬化に値するものを見出すことができないのだから、たとえ彼らが述べようとする事柄に従っても、ファラオの心を固くする方を、どうして義なる神として彼らは提示できるのか私には分からない。それゆえ、目下の句に関する諸々の事柄において彼らをやり込めるべきである――彼らは、義なる方がどうして固くするのかを示すべきであり、さもなければ、創造主は、固くするからには、邪悪な方だと敢えて言うことになると。彼らは、義なる方が或る人を硬化し得ることの諸々の証明に成功しないか、創造した方に関して邪悪な方に関するかのように甚だしい不敬を敢えて表明しないのであれば、彼らは、「主はファラオの心を固くした」という言葉の別の解釈の道に逃げなければならない。ところが彼らは、 (聖文書の)言葉を諸々の表現どおりに理解できると思い込んでいるため、義なる神に関する彼らに固有の諸々の理解を破棄することから距離を置いている。最終的に彼らは、(聖文書の)言葉がいったい何を暗示しているか分からないと認めることになろう。



[1] 本章は、五つの抜粋からなる。最初の一つは出所不明であり、四つは『出エジプト記評注』からの抜粋であり、最後のそれは『雅歌注解』第二巻からの抜粋である。

[2] Ex.10,27.

[3] Ex.9,12; ; 10,1; 10,27; 11,10.

[4] Ex.7,3; 14, 4; 14,17; 4,21.

[5] 言うまでもなく、グノーシス派である。

[6] Rm.9,18.

[7] 意訳すれば、「創造主は義の神であって、善の神ではないと望んでいる」。

[8] Cf.Ps.62,13; Pr.24,12; Mt.16, 27; Rm.2,6.