盗用厳禁

10 我々の側の或る人は、(言語)習慣から探求を推し進め、次のように言った:心優しい主人は、下人たちの内で罪を犯した者たちに寛大さを示し、しばしば次のように言うのを常とする:「私があなたを駄目にした」、「私があなたを邪悪にした」と。彼らは、彼らの優しさと寛大さとが、甚だしい邪悪さの原因になったようだと品よく表明する。実に、それらのことが言われると、或る人は誹謗して、次のように言う:「主人は、下人を邪悪にしたことを認めた。同様に、神の善性に由来する諸々の事柄がファラオの頑なさの口実となったのだから、それらの事柄がファラオの心を固くしたと記録されているのだ」と。彼は、使徒の次の諸々の言葉に励まされて、自分の考えたことを言うことだろう:「それともあなたは、彼の慈しみと忍耐と寛大さの富を軽んじるのですか――神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らずに。あなたの頑なさと悔い改めない心とに応じて、あなたは、神の怒りと啓示と正しい裁きの日に現れる怒りをあなた自身のために貯えています。(その日)神は、各人に、各人の諸々の業に応じて報いるでしょう[1]」。ところで同じ使徒は、ローマの人たちに宛てた同じ書簡の中で次のように言っている:「神は、怒りを表明し、ご自分の能力を知らせることを望んで、滅びのために準備された怒りの諸々の器を大きな寛大さの内に耐えたとすれば・・・[2]」――あたかも(使徒は)、怒りの諸々の器を耐えた神の寛大さが、実に(そられらの器を)生み出したかのように(言っている)。なぜならもしも彼が、寛大さを示し罪人たちを懲らしめず、むしろ憐れむことよって悪徳の噴出に関与したとすれば、彼は、いわば自分自身の哀れみによって、怒りの諸々の器を生み出したからである。言うなれば、彼自身が、それらを怒りの器にした。そしてその限りで彼は彼らの心を固くしたのである。実際、かくも多くの諸々のしるしと諸々の不思議が起こったにもかかわらず、ファラオが信じず、むしろそれほど甚大な諸々の事柄の後でも反抗したとき、どうして彼が、いっそう固くいっそう不信仰であるとして責められないだろうか――なぜならその固さと不信仰は諸々の不思議な力によって生じたように見えるからである。『福音』の中にも同様の言葉がある:「裁きのために、私はこの世に来た[3]」。実に救い主は、裁きのために世に来ることを意図していなかった。むしろ諸々の不思議な事柄の後でも彼を信じなかった人たちの裁きために彼が来たのは、彼が来たことの結果であった。そればかりか彼は、多くの人たちの転倒のために(この世に)来臨した[4]。彼は、来臨したとき、彼らを転倒させることを意図していなかった――結果的に転倒のために来たけれども[5]



[1] Rm.2,4-6.

[2] Rm.9,22.

[3] Jn.9,39.

[4] Cf.Jn.2,34.

[5] 本節の要旨を簡単に敷衍すれば次のようになる:神は、我々に善悪を行う自由を与えた。しかし善悪を選ぶ決断は、我々自身にかかっていると(盗用厳禁)。

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