目下の問題の中で、以上の諸々の事柄が、神の関して(彼らによって)検討され、播種されているとしよう。しかし、諸々の本性に関する論題に関して、その構成からして滅びのために生まれた人たちがいると想定する人たちは、以上の諸々の事柄を持ち出し、彼らの言っていることは、ファラオの心が主によって固くされたことによって明らかにされると主張する。それゆえ我々は、それらのことについて、彼らから聞くことにしよう。滅びのために創造された人は、諸々のより優れた事柄の何かを決して行うことはできないだろう。なぜなら(彼に)内在する本性それ自体が、諸々の美しい事柄に向かおうとする彼に対立するからである。そうであれば、ファラオは、あなた方が言うように、「滅びの子[1]」なのであるから、彼が民を送り出さないようするために、神によって固くされることにどんな必要があるのか。もしも彼が固くされなかったなら、彼は(民を)送り出しただろう。彼らは、ファラオがもしも固くされなかったなら何を行ったかを言って、そのことに関して答えるべきである。もしも彼が固くされず、(民を)解放したとすれば、彼は、滅びる本性に属していなかったことになる。もしも解放しなかったとすれば、彼の心が固くされることは余計である。なぜなら彼は、たとえ固くされなくても、やはり解放しないからである。いったい神は、彼の主導能力に対して何を働きながら、彼を固くしたのか。(神は)どうして彼を責めるのだろうか――「お前は私に不従順だった。見よ、私はそれに対して、お前の長子たちを殺す[2]」と言うことによって。固くする方は、(既に)固い人を固くしたのか。固いものが固くされるのではなく、柔らかいものが固いものに変わるのは、明らかである。我々が多くの箇所で注意したように、心の柔らかさは、()文書によれば賞賛に値するものである。したがって彼らは、ファラオは慈しみ深かったが邪悪になったのかどうか、そして、神はファラオを責めたとき、虚しく責めたのか、それとも虚しくなかったのかを言うべきである。もしも虚しかったとすれば、どうして(神は)知恵者であり、義なる方なのか。もしも虚しくなかったとすれば、ファラオは、不従順にまつわる諸々の罪の責任者である。もしも責任者なら、彼は、滅びる本性に属していないことになる。しかし、次のことも尋ねられるべきである。なぜなら使徒が、それらの話を利用して、次のように語るからである:「このように(神は)憐れむ者を憐れみ、(固くすることを)望む者を固くする。そこであなたは、私に言うだろう:誰がなおも非難されるのか。誰が、彼の意思に対立したのかと[3]」。固くし憐れむ者は誰なのか。実に、使徒の声に従えば、固くすることと憐れむことは、それぞれ別人に属すのではなく、同じ人に属す。したがって、キリストにおいて憐れみと受けた人たちは、ファラオの心を固くした方に属しており、これらの人たちによれば善良である神――憐れむばかりでなく、固くする神――とは別の神が形成されても無駄である。そうでなければ(神は[4])、彼らが想像するように、もはや善良ではなくなるだろう。



[1] Jn.17,12; 2Th.2,3.

[2] Cf.Ex.4,23.

[3] Rm.9,18-19.

[4] この「神」は、キリストにおいて憐れみを受けた神をである。